仏教を学んでいくと世間の常識、と思っていたことがくつがえされる教えがたくさんでてきます。
今回は世界中で信じられていて止まない、「愛」について。
世間の常識と真理とのギャップ
私達は子どもの頃から漠然と「愛」について様々な概念を植え付けられています。
とかく映画や音楽、文学ではそれはもう多くの表現者によってそれぞれに扱われていますが
世界で共通して言えるのは愛は大事なもの、或いは大切なこと、として扱われているところです。
しかし、そもそも「愛」というものの正体は何なのか?
世間では定義がはっきりしていません。
世俗諦と勝義諦(せぞくたいとしょうぎたい)
世の中には世間の事実と真理の事実があります。
愛の定義を考える際、この2つの観点から考えると良いと思います。
事実とは一見、絶対的なもののようですが、世間の事実というのは時代や地域によって様々に違いがあり、なおかつすぐに変わってしまうものでもあります。
視点を変えることで簡単にその事実も変わってしまう事もよくあります。
例えば法律や風習、文化、言語などいずれも人間が複数人、集まったときに共通概念がないと意思疎通できないので、これらは皆、それぞれに少しづつ築き上げた概念上のものなので常に変化し続けているものでもあります。
こういった私達人間が社会の中で共通概念として育んでいる事実、真実を世俗諦(せぞくたい)といいます。
ある人には緑にみえるものでも別のある人には黄緑にみえていたり、又ある人には傷みに感じる事が、他のある人にはちょっとしたかゆみに感じたりすることがあります。
これはどちらかが間違った認識をしているのではなく、それぞれにとっての事実なのです。
一般的に「愛」は、人が対象を大事にする気持ちやいとおしく思う気持ち、を表していますから、それは世俗諦での事実であり、真実、ともいえます。
一方であらゆる現象をありのままにみる仏教では、この「愛」と言う言葉をもっと、分析して2つの意味に分けて捉えます。
真理の世界では世俗諦の「愛」を2つの意味に分けるのです。
その1つは「渇愛(かつあい)」。
もう一つは「慈しみ(いつくしみ)」です。
渇愛は感情
仏教の説く渇愛とは「欲のこころが大きく膨らんでいる状態を意味します。
激しく喉が渇いている状態を想像すると良いでしょう。
こんな時はとにかく何でも良いから水分が欲しい、と思いますね。
渇きが激しければ激しいほど理性を失い、水、に見えるモノなら何でも見境無く手を伸ばしてしまうでしょう。
これが危険なのです。
手を伸ばしたものが確かにタダの水であれば良いですが、例えばそれが海水だったらどうでしょうか?
飲めば飲むほど渇きは激しくなり、やがて体を壊すことになります。
これは肉体(=物質)の現象ですが、こころも同じです。
何か対象に向かって激しく、欲しがる気持ちは理性を失い、欲のままに突き進むのです。
世間で言われる「愛」には仏教の目で見るとほとんどがこの「渇愛」のようなものです。
大事なモノ、大事な事、として扱われるその心には対象に向かっての執着心、激しく欲しがる気持ち、であることが多いのです。
そこに気が付かず、ひたすらに愛する人、愛するモノ、愛する仕事、愛する趣味などに執着心を膨らませていては、道理として苦しみが増えていく結果が待っています。
感情は悪
そもそも真理に照らすと感情は悪なので、執着心(対象に意識がべったりとくっついて離れない状態)、欲しがる気持ちも当然悪行です。
大事に思う気持ち、幸せを願う気持ち=慈しみ
私達が良いこころだと思っている本当の愛、無償の愛とは仏教では「慈しみ(いつくしみ)」というのです。
相手のことを自分の事のように心配する気持ちで、決して自分本位な感情ではありません。
自分のこころに欲が無いか?相手に対して代償を求める気持ちは無いか?
これが渇愛と慈しみを見極めるポイントです。