仏教の教え。その特徴と目的

初期仏教の決定的な特徴

世界三大宗教のうちのひとつが仏教ですが、他のイスラム教、キリスト教を含めあらゆる宗教と比べても根本的な違いがあります。

それは、誰が説いているかというところです。

他宗教では必ず「神」という存在があるのが前提で、その神が人間に対して教えを説いています。

一方、「お釈迦様」は私たちと同じ人間です。人間が教えを説いています。

そしてもう一つの違いが、教えには一貫して根拠があり、説明されているところです。

そもそも宗教に求められるものは「生きるとはどういうことか」、「こころとは何か」、「私の存在意義とは何か」などではないでしょうか。

それがしっかり、はっきり分からないから人生には「苦しみ」がつきまといます。

その「苦しみ」の原因を知りたいと望む人々に対して、相手の理解力に合わせて説法(対機説法又は応病与薬)したのが「お釈迦様」であり、それができたのは「覚者」であるお釈迦様だからです。

あくまでお釈迦様は教えを乞う人々に対して口頭で説法していたのであって、今残っている経典は後に、直弟子たちが教えを残すためにまとめたものです。

ですからお経というのは大抵、「如是我聞(にょぜがもん)」から始まります。「私は、かくの如くお聞かせいただきました」と言う意味です。

根本的には、仏教の説く最終目標は正しい修行ののち、お釈迦様と同等な状態である覚者になること。
いわゆる覚った状態(阿羅漢果という)になり、その肉体的生命を終えたあかつきには、輪廻転生からの解脱で一切の苦しみから解放される事です。

現実的に現代の日本で出家してそこまで目指しても、今生において達成できる可能性は極めて低いですが、肝心なのはそのプロセスで、お釈迦様の説く修行方法は在家者の私たちにもできることがたくさんあり、正しく実践することで人生がより良い方向へ向かうような論理が通っています。

主観や感情に振り回されることなく、事実(真理)をありのままに見ることは、私たち人類のみならずすべての生命において、生まれつき備わっていない能力で、これは少し自分やまわりの生き物を観察することで、だれでも確認できるはずです。

どんな生命も生まれつき、主観でしかものごとを感じる事はできません。

一切の苦しみの根本的な原因はこの主観にありますのでそこのところを、主観ではなく完全に客観的にものごとを捉える能力、これをパンニャー(智慧)といいますが、このパンニャーを開発することが仏道を歩む人々の目標となり、こころの汚れである貪り、怒り、無知を少づつでも払拭し、人生の苦しみを減らしていくことが仏教の目的と言えるのです。

そのような観点から考えると、どう考えても「生きるとは何か?」とか「心とはどういうものか?」と言った疑問に正確な答えを出せしているのは論理的な説明がつく「初期仏教」だけかと思います。

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