仏教(特に初期仏教)の魅力のひとつに、その「教え」に納得のいく根拠があり、それぞれしっかり説明されているところがあげられます。
例えば仏教では、「こころ」の事をしっかりはっきり定義しています。
「こころ」とは認識器官のはたらきであり、「感覚」そのものということ。
一般に人間の認識器官(感覚器官)は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五つの感覚、「五感」という事で古くから理解されていますが、仏教ではこの五感のことを「こころ」と考えるのです。
そして大事なのが六つ目の感覚である「第六感」です。これは一般的には五感を超えた感覚。「直感」とか「勘」、あるいは「超能力」の様なニュアンスで使われている言葉ですが、仏教ではこれは「意」と言って頭で考える意識のことです。
なので特別不思議な能力ではなく単に普段いろいろと想像したり、妄想したりして沸いてくる感覚や感情。それを「こころ」といいます。
つまり私たち人間の感覚器官は六つあり、他の生命にはまたそれぞれ、感覚の窓口、門の数が違います。
普段、私たち俗世間では「こころ」とは何かと問われても、なんとなく「感情のことかな?」とか「魂のこと?」とか、ひとそれぞれ、自分勝手な妄想で認識しているようなものですが、これが何かとトラブルを招き、苦しみの原因になっているようでもあります。
そもそも仏教の視点(=真理をありのままにみる視点)からみると「感情」はすべて悪であるし、「魂」なるものは「どこにも確認できない」ので、それをもとに考えを進める必要すらなく、必要なのはしっかり自身で今ある感覚を自己観察し、今起きていない過去や未来の妄想を絶ちながら生活する。それによって今現在、行っていることに集中できますから、当然に次の場面ではいい結果が生まれる。
常にそのように生きることで苦しみは減っていくと説かれています。
これは、たとえば私たちには姿も形も見えない「神」なる存在に手を合わせ、信仰を奨めたり、何の根拠も、証明もできないのに、私たちが生きている世界の「創造主がある」とか説明する他宗教とは全く違う特徴だと思います。
自分もできる限り余計な「感情」に振り回されることなく清々しく「今」に集中して生きていきたいものです。