普段の暮らしの中でできる仏教的行い 5選【不邪淫編】

【暮らしの中でできる仏教的行い 5選】と題して私なりにこのブログを見てくれている希少なあなたに向けて簡単に極力分かりやすく、そして何より人生の役に立つ事を祈りつつ説明してきましたが今回は「不邪淫」についてです。

不邪淫の意味

不邪淫(ふじゃいん)を理解するために「邪淫(じゃいん)」とは何かをはっきりさせましょう。

一般的にも言葉というのは他の言語に訳そうとすると、正しく理解するのが難しくなるものですが仏教の言葉、仏語を訳す際は特に理解するためには細かい分析が必要かと思います。

日本語の「邪淫(じゃいん)」を直訳すると「よこしまでみだらな行為」となりますが、これではなんだか漠然としています。

もともとのパーリ語の経典において邪淫とは

Kamesu micchacara(カーメス・ミッチャーチャーラ)とあります。

意味としてはKamaは多くの注釈書では、欲の中でも性欲に関する欲で「愛欲」や「性的な関係」と訳されているようです。

人間は物質的な欲を貪りがちで、肉体的刺激もこれは物質に依存した欲そのものです。

そして、人間の5つの感覚器官が同時に刺激されるのが性行為ですから欲の中でも極めつけと言えます。
ですからkamesuで「あらゆる欲の中でも極めつけである性欲」が挙げられているんですね。

micchacara(ミッチャーチャーラー)は不道徳な行為を意味しますから、つまり「不道徳な性行為」と言う意味で理解して良さそうです。

これをしないと言う意味の単語がveramani「しない、しません」で、これがつくと「不道徳な性行為はしません。」となり、

不邪淫戒を要約すると

Kamesu micchacara veramani sikkhapadamsamadiyami

「あらゆる欲を満たす行為において(kamesu)不道徳なやり方、間違ったことは(micchacara)しない(veramani)という戒めを守りますsikkhapadamsamadiyami(シッカーパダン サマーディヤーミ)。

となります。

道徳とは

ここで道徳について確認しておきましょう。

仏教でいう道徳は一般社会の、俗世間の意味とは少し違って、生命がどの様に生きると苦しみが減り、より良い生き方となるかという教えです。

社会生活を営む上で、ひとりひとりが守るべき行為はその地域や時代によって様々に変わりますが、仏教の説く道徳とは時代や場所に関係なく生命全体にとって普遍的なものなのです。

真理の1つとして「生きる」とは苦の連続です。
お釈迦様はなぜ「一切皆苦」と言ったのか?人類至上最もクールな教え!

そこからどうすればその連続する苦しみを乗り越え、満ち足りた人生を歩めるのかを示しているのが道徳であり、それは真理でもあります。

ですから道徳はすべての生命が残らず従うべきものなのです。

不道徳と言うことは、人の道を外れたこと。つまり人が不幸になる道、生き方です。

不幸になると言うことは苦しみが増えると言うことでもあります。

だれもが苦しみが増えていく生き方なんてしたくないはずなのに、人は生まれつき感情的で真理を見つめようとしませんから、しっかり意識して道徳を学び、実践しない限り、苦しみが増えていくばかりなのです。

不邪淫とは不道徳に性欲を満たそうとする行為ですから、一般社会では俗に言う「不倫」が当てはまりますね。

皆さんの周りではどうでしょうか? 「不倫」している人って結構いますよね、実際。
よく観察してみてください。 かなり不幸に見えませんか?それは道理として苦しみが増えていく生き方だからです。

性欲について

私達人間は本当にどうしようもなく欲、怒り、無知に覆われていますから、何かにつけて自分の悪行為をも何とか言い訳しながら正当化してしまいます。
その良い例が「性欲」です。

お釈迦様は「性欲」においては妄想の産物と説いているようです。

例えば俗世間で邪な人は、人間の大欲求として「食欲」「睡眠欲」に次いで、生きるのに不可欠な欲だから仕方が無いと考えていますよね。

しかし真理に則った見方をする仏教ではそれは違います。

よく自己観察してみれば分かると思いますが、性欲が沸くときは必ず、その前の段階で妄想が働いているはずです。

それは明らかに食欲睡眠欲とは違うプロセスで生まれているのです。

どちらかというと性欲は「あれが欲しいこれが欲しい」といろんなものを欲しがる心と似ています。

物欲が強烈な人は買っても買っても、手に入れても手に入れても次から次と欲しいものができて、いつまで経っても心が満たされません。

それと同じで性欲が強い人は自分の頭で妄想して自ら欲望を作り出しているのです。

ですから性欲は特に生きるのには不可欠ではないし、むしろしっかりと人を思いやる慈悲の心を育てるためには邪魔であって不要といえるものなのです。
 性欲は決して人間の3大欲ではありません。

そもそも「性欲が3大欲だ」という人は性欲を満たさないと死ぬのですか?そんなわけないですね。

孫を残さないと人類が滅亡するからと心配して浮気するわけでは無く、ただただ、慢性的に欲を満たしたいという、その代償も考えずに無知に覆われ妄想に耽っている状態です。

これでは幸福になれるわけがありませんよね。

ですから事実をよく観察して生きることが大事だよと仏教は私達に教えてくれているのです。

出家者は不邪淫戒ではなく不淫戒を守る

出家して仏道を歩む人々は徹底的に人間の持つ煩悩を断とうとしているわけですから、私達在家の人間のような甘えは許されません。

私達在家者は不邪淫、つまり正当な相手との性行為はまあ、そんな他人に迷惑はかかりませんから良いんじゃないの!とお釈迦様が言ったわけではありませんが、一応、そういう事にはなっていますね。

でも出家者は何と言っても輪廻からの解脱を目標に修行をしているわけですから、少しの妄想も、心を育て上げる足かせになってしまうのです。

ですから生きるのに必要最小限の生活が基本です。

当然、先ほどの説明からも性欲はただの贅沢な欲求に過ぎませんので道理として結婚することもあり得ないし、邪じゃなくても淫らな行為事態が御法度なのです。

日本にはたくさんお寺があり住職がいて、当たり前のように結婚して家族と暮らしていますが、このことからも甚だ本来の仏教とかけ離れているのが分かりますね。
日本の仏教はもはや職業としてのお坊さん、でしかないのかもしれません。

最後に

いかがでしたか? 不邪淫の重要性が私のつたない説明でも少しは理解いただけたでしょうか。

それにしても世間には、どれだけ浮気する人々が多いのでしょうか?

現代の私達は昔より科学力が進み、物質的な面では十分満ち足りています。
でも、日々の暮らしの中で毎日、幸せを感じ、満ち足りた気持ちでいるためには、大事なことがあるようです。

それが仏教の教える「小欲知足(少欲知足)」の心だと思います。
私達の幸せは物質によるものではなく私達自身の心を開発し、育まれてこそ、より大きくなるものだと仏教は教えてくれています。


お釈迦様の幸福論はこちらの記事で書きました↓

この世の中には人の数だけ、さまざまな「幸福」の考え方があるようですが、どれもいまいち正しい考え方、とは言えないでしょう。 私達、凡...
今回は「不妄語(ふもうご)」について私なりに説明してみます。 不妄語の意味 不妄語の意味を考えるならまず、妄語とは何か?をはっき...
仏教と日本の歴史は長く、文化としてなじみ深いものになっていますが、現代の私達一般人はどれだけその教えを分かっているでしょうか? 仏教の...

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする