今回は「不妄語(ふもうご)」について私なりに説明してみます。
不妄語の意味
不妄語の意味を考えるならまず、妄語とは何か?をはっきりさせましょう。
妄語(もうご)とは妄言(もうげん)と同じ意味で「うそ・偽りを言うこと」、仏語としては覚っていない(真理を理解していない)のに覚ったふりをして不実なことをいう意味も含まれるようですが、要は「嘘をついて人を欺いたり騙したりすること」ですね。
ですから戒律としての不妄語の意味としては「嘘をついてはいけない」という極めてシンプルな教えです。
仏教では「嘘」は殺生よりも、偸盗よりも極めて重い罪としています。
ダンマパダ(法句経)には「嘘をつく者には他に犯せない罪はない」と説いてあります。
嘘はそれほどに罪が重いようです。
そう聞くと俗世間では、私もそうでしたが「人の為につく嘘もあるのではないか?」という疑問を持つ人がいます。
しかし、仏教はクールです。例え、こどもの躾をするためや、友人同士でふざけていう嘘でも「嘘は嘘」として罪なようです。
ただし、相手に与える害が少ない場合は罪の重さも少ないだろうともいえます。親は普通、いつでも子どもの幸せを願っていますから、何か道徳を教えたいが為につく嘘はあるでしょう。
そのような嘘は結果的には子どもに与える害は極めて少ないでしょう。
しかしいつでも人を笑わせようとして嘘をつく人などはいつも事実と違うことを妄想するはめになりますし、そのような人がいざ、誰かにまじめに真理を伝えようとしても真剣に聞いてもらえなくなるものです。
罪の大きさに違いはあれど、「嘘は罪」と覚えていた方が良さそうです。
なぜ嘘がそれほどの罪なのか
真理として命の価値は平等です。
その上、自分というひとりの人間は無数の他の生命に助けられ、依存して生きていられるのです。
理性で客観的に自分と周りを観察してみればだれでも分かる事です。
そこで嘘をついて人を欺き、騙してでも自分の利益や都合を優先すると言うことは、自分の命が他人の命よりそれだけの価値があると、間違った考えをしているのです。
自分の命が他人の命より確かに価値があると証明できるならば何をしてでも自分さえ生きていけば良いのですが事実は違いますね。
私達は自分が苦しみを減らし、楽に生きていく為にも他の生命の尊厳を守る義務があるのです。
人を欺いてでも生きていきたいと思うのは生きることにそうとうな執着があり、あまりにも事実が見えていない無知な存在です。
本当に理性的な人は嘘はつかないのではなく、つけなくなるのです。
嘘は無量の罪
最後ににテーラワーダ仏教のスマナサーラ長老の著書に、なぜ「殺生」よりも「嘘がいけないのか」興味深い説明があったのでご紹介します。
仏教では罪を定義すると「自分の幸福も他人の幸福も壊す行為」としています。
ですから自分や他人に害を与える行為は罪です。
その点からみると、例えば一人の生命を殺す場合、殺した人は問答無用で人を殺した罪になりますが、殺された人は、もし生前善い生き方をしていたなら死後はよいところへ生まれるでしょう。
現実的に考えて一人の人間が人を殺す場合、せいぜい数人で、あとは捕まって自由を奪われますから、いくら大量殺人をしようとしても限界があります。
そのように考えると殺生によって与える害というのは量れるのです。
つまり有量なのです。
その罪は殺された人の生き方にもよって変わってきます。
極悪人を殺しても、智慧があり人々のために生きていた人を殺しても同じ殺人罪ではありますが後者の場合の罪の方が重いのです。
いずれにしろ、殺生とは基本的に体で行う罪なのでリミットがあります。
一方で、嘘はそうではありません。
嘘をつく場合、一生つき続ける事もできるし現在生きている全人類を騙す事もできるし、これから生まれる人間まで騙すことができます。
さらには嘘で騙したその人に、さらに悪行為をさせることもできます。
戦争を引き起こす事も言葉の力でできるのです。
人を殺生する場合には相手を殺すことはできても、地獄に落とすことまではできません。
でも嘘つきは騙した相手に悪行為をさせればさらに死後の世界でも不幸にすることができるのです。
また殺生はほとんど一時的な感情による犯罪で、あとから反省する場合もあるのですが、嘘つきは心を慢性的に汚しているので、死後、天国に生まれることも修行して解脱に達する道も閉ざされてしまいます。
嘘はつく癖がついたらどんな罪も犯せるライセンスになり、罪を犯せばまた嘘でごまかす様になるのです。
ですから、嘘は無量の罪と言えます。
殺生よりも偸盗よりも何よりも罪が重いのが妄語、すなわち「嘘をつくこと」なのです。
みなさん「嘘をつく事なかれ」