普段の暮らしの中でできる仏教的行い 5選 【不殺生編】

仏教と日本の歴史は長く、文化としてなじみ深いものになっていますが、現代の私達一般人はどれだけその教えを分かっているでしょうか?

仏教の説く真理は時代や場所に関係なく、生きとし生けるもの全てにおいて当てはまる事実を教えてくれています。ですから、その教えを実践すればするだけ、その生命は幸せを感じて生きていけることになります。

その理屈は、個人的感情、希望、渇望によって物事を判断するのでは無く、因果法則にこちらから合わせて行動することで、希望通りの結果を得られるようになる、という極めてシンプルな道理です。

感情ではなく、理性を育てて、生きることの苦しみを減らしていきましょう。という教えなのです。

仏教は知っているだけでは無意味です。その教え通り、実践して初めて、実感する事になるようです。

そこで今回は、とりわけお釈迦様が説いた真理の五戒を私なりの解釈でまとめてみました。

ご興味ある方は是非ともお試しください。









不殺生(ふせっしょう)

まずは不殺生です。
これは通常、常識的な人ならば、犯すはずがない事、と思っていませんか?

ところが、人間は大抵、やってしまっています。

なぜならこの教えは全ての生命に対しての教えなのです。

あらゆる生命を観察してみればわかりますが、皆、殺されたくないのです。

生きる衝動によって生まれてきたのですからその渇望を他の生命に奪う権利はありません。

奪うものは奪われます。 動物の弱肉強食の世界は、だから終わること無く命の奪い合いが繰り返されているのです。

ただ、動物は自分や子ども達が生きるのに必要な分以上は殺そうとしません。

人間が考えるべきはそこで、生きるのに必要どころか、自分が楽しむためだけに平気で魚釣りや、ハンティングなどをやる人もいます。

必要だから仕方なく命を頂いていても、それでも悪行としてその報いは自分に返ってきてしまうというのに、私達人間は不要な殺生を繰り返しています。

世界中の人類が悲惨な歴史を繰り返しているのはこのように、真理をことごとく無視した行いをしているからではないでしょうか。

という私も白状すれば時々、「蚊」に対して殺意を抱いてしまいます。
因果法則に則る生き方とは本当に難しいものですが、でも蚊を殺さないことは現代の日本ならできない事ではないのです。

真理として「食べる」という行為と「殺す」という行為はまったく別の話です。

その時の自分の心の状態を観察してみてください。

生命を殺そうとしている愚かな自分に気がついたらやめれば良いのです。
ただ止めるだけですから気づきさえすれば実は簡単です。

仏教の視点から見ると、魚や動物を虐待して楽しむ行為はまさに人間が「無知」がゆえにやっている悪行です。

では漁師さんや畜産業などの仕事として「殺生」をせざるを得ない方達はどうなるのでしょうか?

この説明には「業」(ごう)の話が必要となります。
これは難しい話で、私も完全に理解できていませんが、例えば、普段から人のために役に立っている人間と他人に迷惑ばかりかけている人間のどちらを殺してもその罪の重さは同じではありません。

命そのものの価値は平等ですが、「業」としては普段から人のために役立つ人を殺す、と言うことは凄く重い罪のようです。

ですからお釈迦様の時代では覚者である「ブッダ」を殺すことは最も重い罪だったようです。(ここでいう罪とはもちろん人間社会の法律的な話ではなく因果法則として、その犯罪人が受ける報いが半端じゃないということです。)

で、話は戻りますが仕事として殺生してしている方々は、確かに罪を犯しています。
しかし、同時にたくさんの人々の役に立っているのです。ここが大きなポイントです。

多くの人々の生きていくためになっている事で、罪と同時に徳を積んでいるのです。だから漁師さんや畜産業で、殺生をしていてもその人たちの身に特別、悪い災いは起こらないのではないでしょうか。
ただ、それもバランスです。

お釈迦様の時代から、智慧を育てた人々は自ら殺生を避ける生き方を選ぶようです。
私達は、殺さなきゃ生きていけない、と考えるのではなく、食べないと生きていけないと考えるべきなのです。

少なくとも、今の日本人として生まれたのなら、他の命を奪わなくてもほとんどの人は何の問題も無く生きていけるはずです。
できることから、今すぐ始めましょう。

お釈迦様は、「今から絶対に殺生しないぞ」と決めた時点でものすごく、高い徳を得られると説いています。

欲を満たすために言い訳ばかり考えず、より多くの人に、是非とも実践して欲しいと思います。

「命はなぜ大切なの?」の答えはこれ!!

度々教育現場などで子ども達に「命はなぜ大切なのか?」を説明するときに困ってしまうとか、難しい、といったことが起っているようです。

これは要するに私達大人が、まるで好き勝手に人生観やそれぞれの経験で教えようとしているからだと思いますが、結局、答えは議論するまでも無く実にシンプルなのです。

「どんな生命でも死にたくない」

コレにつきます。

「いやいや、自殺願望者だっているではないか?」と思いますか?

本当は真逆の感情です。自殺する人は本当はものすごく生きたかったのです。

自分だって普通に清々しい気持ちで人生を送りたかった、と思っていたのです。

ところが人は望まない出来事ばかりが続くと、こころは怒りと無智で満ちてしまいます。

どこかで、客観的に理性の目で、ものごとがみられれば良いのですが、一度極端に「怒り」で一杯になった心はやがて外か内に溢れるように向けられるのです。

外に向けられた怒りは犯罪者をつくりあげ、内に向けられた怒りは自分の身体を傷つけたあげく、命を絶ちます。

これは因果法則です。

ですがどんな生命でも生まれつき死にたい生命なんてあり得ません。

嘘だと思う人は探してみれば誰にでもすぐ分かると思います。

そんな生命など決してみつかりません。

どんな生命でも命を奪おうとすればかならず逃げるでしょう。

最後に

どんな生命でも本当は生きる条件が揃っているから生まれてきます。
それは生きる権利、といって良いでしょう。

ところが生命は生命の命をいただかないと生きていけない。

奪った生き物は、常におびえながら生きなくてはなりません。

この矛盾に気が付き徹底的に研究し、この世の真理を明らかにされたのがお釈迦様です。

私達人間は一時の感情ではなく、常に真理(自然の摂理)にのっとった生き方をしなくては苦しみが増えるばかりなのです。

都合良く「殺生」に対してこれぐらいは良いだろうと、考えるべきでは無いと思います。


【不偸盗編】はこちら↓

http://ruppatiti-rupam.com/fuchuutou/







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