大乗仏教のお経としては、とても短く覚えやすいことからか、在家の一般人にも広く伝わっているのが「般若心経」、正確には「般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみったしんぎょう)」と言うそうです。
写経の世界でも教材としてよく使われているそうですし、書店に出向いてもこの般若心経の注釈本や解説本などは他のお経本に比べて圧倒的に多いのが分かります。
最近ではその漢文の一部をTシャツにデザインしたり、ロックミュージシャンが歌詞に取り入れたりと、サブカルチャーとしても普及している次第です。
このように日本人には人気の高いお経ですが、その教え。正直言って私には全く理解できません・・・。
今回はそんな般若心経をより分かりやすく解説・・・、
というのは専門家や他サイトにお任せしまして、
代わりに私達にとって、より分かりやすく、役に立つ初期仏教(お釈迦様の)の教えである「慈教(じきょう)」というお経をご紹介したいと思います。
般若心経では駄目、な理由
まず、般若心経を全文、ここに載せてみましょう。
般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみったしんぎょう)
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若波羅蜜多心経
このお経が普及している理由のひとつとして、この短さが際立ちますね。
一般的に「お経」というと、法事の時などにお坊さんが木魚を打ちながら読むかなり長くて、意味などサッパリ分からないものといったイメージを持たれている中で、この般若心経はわずか300字足らずで大乗仏教の真髄が説かれているそうですから、なるほど、これなら私達にも覚えられるかも! と興味をもたれやすいのかもしれませんね。
それに、このお経は一般人の中でもよく使われる言葉、「色即是空(しきそくぜくう)」がでてきます。
仏教のことに関心が無くても、日本人なら多くの人が一度や二度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
また、私達がよく知っている「観音様(かんのんさま)」まで登場します。《観音菩薩(かんのんぼさつ)、観自在菩薩(かんじざいぼさつ)、または観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)とも呼ばれている》
これらのことでなんとなく、私達在家の一般人にも親しみをもつ条件が揃っているのかも知れませんね。
般若心経の概要
さて、般若心経は、私達にも馴染みのある観音様がお釈迦様の弟子である舎利子に真理を説いていく形態となっています。
具体的な訳については、素人の私には解説できません。
たくさんの書籍が出版されていますし、インターネット上にもたくさんの信頼できそうな方々の解説などがみつかりますのでそちらを参考にしていただきたいと思います。
ただ、私からあなたにお伝えしたいポイントは、
- 観音様、というのは実在した人物ではなく、お釈迦様の死後、数百年も後に、徐々に広がっていった大乗仏教の世界で、ねつ造された人物像であること。
- 舎利子(しゃりし)というのは、お釈迦様の時代に智慧の第一人者として実在した人物であること(読サーリプッタ、サーリプトラ)
つまり、言いたいのは般若心経はあくまでも、正真正銘のブッダであるお釈迦様の教えではなく、死後数百年の内に徐々に創作されていった大乗仏教の経典です。
※大乗仏教の経典は一応根本はお釈迦様の教えになぞらえてはいるものの、解釈にかなりアレンジを加えた創作物です。
「ブッダ」と「お釈迦様」の違いについてはこちらをご参照ください↓
本来、お釈迦様の教えというのは、何か分からない事がある人や真理を知りたいと願う人の方から質問し、それに対して説法を的確に相手に分かりやすく、つまり、学ぶ側の知識や理解力に合わせて教えを説くのです。
これを対機説法(たいきせっぽう)、あるいは応病与薬(おうびょうよやく)、と言いますが、初期仏教の経典はお釈迦様が亡くなった直後に直弟子たちが集まり、まとめたものですから「如是我聞(にょぜがもん)」、「私は師に、このように聞きました。」というフレーズで始まるスタイルで書かれているのです。
一方、般若心経は大乗仏教の観音菩薩が修行の後、自身で発見した真理について、小乗仏教(初期仏教)界ではすごく優秀な弟子であった舎利子(サーリプッタ)に対して一方的に説いているのです。
この辺は仏教史の話としては面白いところではありますが、ここに大乗仏教が初期仏教のことを「君たちの教えはスケールの小さい小乗だ!」と、因縁をつけているようにも感じませんか?
こういう点で私は、大乗仏教の、なんというか傲慢さ、結局、覚ってもいない人々が真理を見出せずにまた、愚かな思考で身勝手に解釈していく縮図、みたいなものを感じるのですがいい過ぎでしょうか?
般若心経はここ、日本でも有名なお経となっているのにその内容は、基本的仏教語などの知識が無いと理解するのが難しいんです。
決して全てがデタラメなわけではないと思いますし、うまく現代語訳で訳しているものを読むと納得できる部分もたくさんあるのですが、その教えを覚えたところで、その後、私達在家の生活の役に立つのか、というとやはり、出家して瞑想修行に励む場合でもなければ、なかなか役立たせる教えでもないと思います。
覚えやすいお経なので暗記しやすく、読経できるようになれば気分は良いかも知れませんが、仏道を歩む為には、丸暗記したり意味もわからないまま「色即是空(しきそくぜくう)」等と唱えたところで何も始まりません。
般若心経はもし私達にも理解できるように書こうとすれば、実はものすごく長~いお経になるでしょう。
つまり、仏教用語のわからない在家者が理解できる教えとしては、あまりにも説明を端折り過ぎ(はしょりすぎ)ているお経です。
ということで、私、個人的には本当に仏道を歩みたい、と考えている人や、本当の真理について学びたいと考える人には、「般若心経」は覚えても意味がないように思います。
慈教がオススメな理由
般若心経を悪く言うつもりはないのですが、仏教たるもの、在家の私達でも理解して実践すれば人生がより良い方向へ回り出すような、そういった教えが本物だと思います。
そこで私は、お釈迦様の教えを忠実に受け継いできた初期仏教のお経である「慈教」をここにご紹介したいと思います。
このお経はインドから北伝してきた大乗仏教と違い、南へ伝わったお経なので、漢文ではなく、当時のお釈迦様の言語、パーリ語で伝わっているようです。
慈教(じきょう)
慈教<日本語訳:日本テーラワーダ仏教協会>
[解脱という] 目的をよくわきまえた人が、
静かな場所に行ってなすべきことは 以下の通りである。
1.何事にもすぐれ、しっかりして、まっすぐでしなやかで、人の言葉をよく聞き、柔和で、高慢でない人になるように。
2. 足ることを知り、手が掛からず、雑務少なく、簡素に暮らし、諸々の感覚器官が落ち着いていて、賢明で、裏表がなく、在家に執着しないように。
3.[智慧ある] 識者達が批判するような、
どんな小さな過ちも犯さないように。
幸福で平安でありますように。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
4. いかなる生命であろうともことごとく、動き回っているものでも、動き回らないものでも、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、巨大なものでも、
5. 見たことがあるものもないものも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、既に生まれているものも、[卵など、これから] 生まれようとしているものも、生きとし生けるものが幸せでありますように。
6.どんな場合でも、ひとを欺いたり、軽んじたりしてはいけません。怒鳴ったり、腹を立てたり、お互いにひとの苦しみを望んではいけません。
7.あたかも母が、たった一人の我が子を、命がけで守るように、そのように全ての生命に対しても、無量の [慈しみの] 心を育てることです
8. 慈しみの心を、一切世間(すべての生命)に対して限りなく育てることです。上に、下に、横(周り)に[棲む如何なる生命に対して] も、わだかまりのない、怨みのない、敵意のない心を育てることです。
9. 立っている時も、歩いている時も、坐っている時も、あるいは横になっていても眠っていない限りこの [慈悲の] 念をしっかり保つものである。これが梵天 (崇高なもの) の生き方であると言われています。
10. [このように実践する人は] 邪見を乗り越え、常に戒を保ち、正見を得て、諸々の欲望に対する執着をなくし、もう二度と母体に宿る(輪廻を繰り返す)ことはありません。
初期仏教が今でも伝わっているタイやミャンマー、スリランカでは、在家一般人でも暗記している人がたくさんいるほど親しまれているお経だそうです。
いかがでしょう、訳されているからとはいえ、般若心経のように難解な専門用語がでてこないのでスンナリと入ってきませんか?
私達が普段からどの様に振る舞えば良いのかがこれでよく分かりますよね。
※慈教について、さらに詳しく知りたい方やパーリ語のまま覚えたい、あるいはパーリ語の発音、音声を聞きたい方はこちら、「日本テーラワーダ仏教教会」のこちらのページ(音量注意)が親切で分かりやすいです。
私達が仏教に学ぶべきこと
初期仏教では私達に「智慧を開発し育てること」と同時に慈悲の瞑想法を教えてくれています。
「慈悲のこころ」とは生まれたときから主観的で自己中心的な私達には努力しなければ現われてこないこころです。
この慈悲心を開発するためには、とにかく最初は偽善でも嘘でもとにかく他人の幸せを願ってみることで少しずつつくられていくようですが、私達は普段からちょっとしたことで他人に対して怒り、憎しみ、嫉妬、ねたみ等の感情を抱きがちです。
だからなかなか慈悲のこころの開発は難しい作業ではありますね。
でも本当は私達自身が生きていく為にはあらゆる生命が相互に依存した関係、すなわち助け合いの中でしか生きていけない、と言う事実もあります。
どうしてもついつい、忘れがちになってしまう他人への思いやりのこころ(慈悲のこころ)を育てることで結果、自信も幸福を得る、と言う事実。
つまり私達が仏教から学ぶべきはたくさんの難しい専門用語やら仏教教理学、細かい戒律などのことよりもたったひとこと、
幸福な人生を得たければ慈しみの心を育てるしか他に方法はない、
ということではないでしょうか。
今回ご紹介した「慈教(じきょう)」を覚えることでよりいっそうあなたの心にも私の心にも「慈悲のこころ」が芽生えることを期待します。(もちろん実践あるのみですが。)
慈悲の瞑想法の仕方はご専門のこちらへ委ねさせていただきます↓
外部リンク:日本テーラワーダ仏教教会のページ