私達の生活はこの数十年で驚くほど変化しています。
この変化のスピードときたら年々増していくばかりと感じます。
この変化を世間では進化、進歩、発展といった良い変化として考えられているようですが、一方で、あらゆる生命の本願でもあるはずの幸福感は果たして皆に行き届いているでしょうか?
今回は人間がシンプルに幸福を感じて生きていく為にはどうすれば良いか。
将来、自分の子どもにも伝えられるように仏教の智慧を借りてまとめたいと思います。
私達が一番心配するべき事
現代では様々な生き方があり、それを認め合う社会こそ、私達にとって必要なことと思われているようです。
そんな世間では個人個人で”大事なモノ”、”大事な事”も違ってきます。
仕事を第一に考える人であったり、趣味を第一に考える人、他にも健康、家族、友人、お金、地位や名誉、知識、思想、宗教、勝利などなど、ありますね。
しかし生きとし生ける全ての生命に共通した真理を語る仏教に照らし考えてみると、私達にとって一番大事にしなくてはいけないモノは共通して1つ、と決まっています。
それは「こころ」です。
こころを理解するのは難しい
こころを大事にする、と言うことですが、これだけでは世間の一般常識で解釈することは難しいのです。
なぜなら世間では「こころ」についてよく理解している人はほぼ皆無に近いくらい少ないからです。
私達は皆、自分本位で、自分の主観や感情、或いはその場の状況次第で都合良く解釈し、分かったつもりになって誤解したまま生活しているのです。
現代人は科学の力で自然の摂理を無視し、欲と怒りを燃料に知識を開拓してきましたが、その対象はあくまでも物質でした。
研究対象はいつでも肉体を含む物質であって実体が捉えられない「こころ」についてはまるで明らかにできていません。
精神を研究する学者でさえ、精神疾患といった病を研究しているのみで、そもそも”生命のこころとは何か”ということについてはっきりと答えを出した人物は未だかつて約2600年前のお釈迦様しかいないようです。
ですから仏教を学ばない限り、こころとは何か?どういうものか?といったことを知る事ができません。
どんなに難しいことをよく知っている知識人でさえ、仏教(初期仏教に限る)を学び実践しない限り、こころについてしっかり理解している人はいないのです。
それでも皆、実体験などをもとに何となく主観によって分かっているようなことを言いますから、「こころ」について知ろうとするとすればするほど、益々混乱してしまうのが現状だと思います。
仏教の人とその他の人の違い
例えば今でも初期仏教が伝わり実践する人が多いタイ、ミャンマー、スリランカの親達は離れて暮らす子ども達に声をかける時、「ちゃんと周りの人に迷惑かけず、役に立っているか?」と心配するそうです。
一方、今の日本人はどうでしょうか?
私の親もそうですが、久しぶりに電話などで話すとき、大抵は「風邪など引いてないか?体には気をつけなよ」といった言葉をくれます。
どちらも親が子どもを心配する気持ちが表れていますが、「こころ」について分からない日本人はどうしても実体のあるモノ=身体、健康について心配するのです。
でもどうでしょうか?これではもし、体が病気になってしまったら・・・。
もうそれで人生は終わりなのでしょうか?もう幸せはないのでしょうか?あとは苦しみ続けるしかないのでしょうか?
お釈迦様はそのような点に置いて私達の間違ったものの見方を正してくれています。
仏教が教えてくれること
個人の主観や妄想で生まれた概念を元に人生のあらゆる選択を繰り返していくとどうなるでしょう。
実際、私達の現実社会ではほとんどの人々がそのように生きていますが、皆、苦しみなく、平和に暮らしているでしょうか?
客観的に世界を眺めてみると、そううまくいっているようには見えないはずです。
仏教はこころの法則、について、望む人には惜しみなく教えてくれています。
どんな生命にもある貪(欲)、瞋(怒り)、癡(無智)。
これらを克服し、不貪、不瞋、不癡のこころで物事を判断し、さらには人には生まれつき持っていない「慈しみ」を開発し、育て上げることをお釈迦様は推奨されています。
こころの法則としてこのようなこころの人には日々の生活の中でも苦しみ少なく、いつでも清々しい気分、が約束されるのです。
善悪の判断の仕方
私達は主観で物事を判断しがちですが、そのように生きていると時々、これはいったいどちらが正義なのだろうか?と言った場面に出くわします。
世間では時代背景や社会地域によって常識がころころと変わりますし、立場によったり、視点を変えただけで、善悪の判断が難しい時があるので厄介です。
そんな時こそ仏教の出番です。
真理に照らして、一生命である私達のこころを客観的に法則に則ってみると良いのです。
例えば怒っている人に怒りを返してはその炎は益々燃え上がります。
それではお互いに大やけどすることになります。
怒りを炎に例えていますが、炎のなかに身を投げるのは愚かな人のすることです。
賢い人はそこから離れるのです。
怒り、というこころの状態を炎に例えるのはお釈迦様も分かりやすく伝えるために使っていた例えですが、まさに人の心にも法則があることを私達は知っておく必要があるのです。
その法則に従って善悪を判断できるようになれば私達は何の迷いもなく生きられるのでしょう。
- 自分のこころに欲がないか?
- 自分のこころに怒りがないか?
- 自分のこころにぼやけ、迷いがないか?
まずこの3点に気をつけましょう。
最後にマッジマニカーヤ(中部経典)より
お釈迦様の無駄無く簡潔に説かれた言葉を載せておきます。
過去を追うな。
未来を願うな。
過去はすでに捨てられた。
未来はまだやってこない。
だから現在のことがらを、現在においてよく観察し、
揺らぐ事なく、動ずることなく、よく見極めて実践すべし。
ただ今日なすべき事を熱心になせ。
誰か明日の死のあることを知らん。