お釈迦様はなぜ「一切皆苦」と言ったのか?人類至上最もクールな教え!

今回は仏教の真髄である「一切皆苦」(いっさいかいく)について話をしてみたいと思います。

一切皆苦」はお釈迦様が説いた真理を表す言葉の一つです。

はじめに言っておきますと、私はこの言葉、結構好きです。

かなりクールでかっこいいな、とも思っています。

なぜそう思うかを、縁あって、このページにたどり着いたあなたにできる限り簡潔に伝えたいと思います。








真理を表す言葉『三法印』

仏教では真理を表す言葉として

  • 「諸行無常」(しょぎょうむじょう)
  • 「諸法無我」(しょほうむが)
  • 「涅槃寂静」(ねはんじゃくじょう)

というものがあります。難しい言葉も使われていますが、「諸行無常」なんかは割と聞いたことがある人も多いのではないでしょうか?

ただ世間一般に、諸行無常について、言葉は知っていても実は本来の意味を正しく理解している人は少ない様です。

ここで挙げた3つの真理を仏教では「三法印」(さんぼういん)と呼んでいて、これらに今回のテーマである「一切皆苦」を加えたものを「四法印」(しほういん)として、真理を発見するために観察する対象としています。

※調べてみると、初期経典にはとりたてて「三法印」の説法は存在しませんが、「無常、苦、無我」については「法句教(ダンマパダ)」などで説かれているようです。

俗世間と真理のギャップ

世間では、あまり仏教の事を知らない人にいきなり、「人生には苦しみしかない。」的な話をしても、誰も聞きたがりませんので、世界の歴史上に残る言葉や名言集などにも聞くことが少ないのでしょう。

人は一見ネガティブな言葉より、自分次第で人生は良くなる、と言った前向きな言葉が好まれますよね。

例えば

ウォルト・ディズニーの言葉「追い求める勇気があれば、すべての夢はかなう。

オードリーヘプバーンの「何より大事なのは、人生を楽しむこと。幸せを感じること、それだけです。

モーツァルトの「夢を見るから、人生は輝く。

坂本龍馬の「夢中で日を過ごしておれば、いつかはわかる時が来る。

渋沢栄一の「一人ひとりに天の使命があり、その天命を楽しんで生きることが、処世上の第一要件である。

これらような言葉は人生訓として好まれていると思います。

一方、どうでしょう。 お釈迦様の「一切は皆、苦である」。

一見、非常にネガティブな言葉の様にも感じられます。

でも、よく考えれば、実は私達にも、この事実は薄々分かっている部分があると思います。

実は私達人間は「生きることは結構苦しい」ことを、年をとる毎に体験的に学ぶんでいるはずなのです。
幼少期から少しづつ少しづつ、できなかったことをできるようになり、周りの人々となんとか歩調を合わせながら成長していく過程で例えば

離れたくない人と別れなければならない悲しみ。

とても嫌いな人と一緒に何かしなくてはならない怒り。

怪我や病気によって失われるからだの自由や傷み。

老いていく絶望。

などなど、どんな人でも避けて通れないこれらの事柄は皆体験的に感じていくものです。

ただ、それでも「苦しい事しかない」と言われると、いや、楽しいことだってある、楽なことだってあるじゃないか!と反発したくもなります。

では、お釈迦様は間違ったことを言っているのでしょうか?

本当に事実として、絶対的に「楽しい」や「快楽」といったこともあるのでしょうか?

ブッダの真理眼

完全に真理を発見し、理解しているお釈迦様は「ブッダ(覚者)」ですから、本当の事しか言いません。

一切皆苦」を理解するには言葉の意味を具体的に見ていく必要がありそうです。

お釈迦様の時代のインドで使われていたのは「パーリ語」という言語です。

現代では初期仏教の経典以外で使われている地域はないようですが、「サンスクリット語」の俗語、民衆が使っていた言葉であるパーリ語で説法していました。
そして一切皆苦の「苦」を意味するのは「dukkha」(ドゥッカ)という単語で表現していました。

では 「dukkha」(ドゥッカ)とは他にどのような意味があるのでしょうか?


実は「dukkha」には「価値がない」といった意味合いもあるのです。

つまり、「あらゆるものには執着するほどの価値がない

ということを説いているのです。

たとえば、あなたの大好物がカレーライスだったとしましょう。

とにかくカレーライスだったら毎日食べても飽きないほど大好きであったとすると世間一般の解釈では、あなたにとってカレーライスは「苦」ではなく「楽しみ」として解釈されますよね。

普通の人はそこで思考が止まってしまいます。
他の人から見ても「ああ、あの人はカレーライスを食べられれば喜ぶんだな」と。
だとすれば、世界にはそんな身近な所にも「楽しみ」はたくさん転がっているではないか?といった様に思ってしまいます。

でも、真理の目で、仏教でいう智慧を働かせて、よく観察すると、本当の本当にカレーライスがあなたに「楽」を与えているわけではありません。

なぜなら本当にその味が「楽しみ」を与えているなら口に入れた後、噛んで飲み込む事はしたくないはずです。
またはその香りが「」であるなら、ずっと嗅ぎ続けていられるはずなのです。

でも実際の心の働きはまず、カレーライスを目で見たときや香りを嗅いだら、「食べたい」と思い、口にすることができれば今度はそれを飲み込みたいと思い、それで満足するかと思えば、また口に入れたいと思い・・・。

結果的にお腹に一定量入れるまで常に心は飢えた状態(これを乾愛(かつあい)といいます)であり、その上お腹が一杯になれば苦しくなり、それでも食べ続ければどんどん苦しみは増え続けて、それでも止めなければ最後は自滅するのです。

そのように見ていくと絶対的な「」なものはこの世界には見つかりません。

ふかふかの高級ベッドに横になっても「」を感じるのはせいぜい数時間でしょう。
その後も延々と横になっていれば、そんな苦痛なことはないのです。

つまり、私達がいわゆる「楽しみ」を感じる時というのは、その楽しさを感じる感覚は確かにあるのですが、それは「直前にしていたことに相対した感覚」とも言えます。

座って楽だと思えるのは、その直前に立っていた苦痛が座ることで瞬間的に消えるからです。

好きな趣味などをして楽しいと感じるのもその前に仕事やら家事やら他の事をやりながら「はやく○○(好きな趣味)をしたいなあ」と心は漠然と感じているものです。

実行できるまで心は飢えた状態で、やっと実行できた時、その飢えていた苦しみが瞬間的に消えるため、その行為が楽しいと思えるのです。

「思える」というところがポイントで、それは言い換えると「錯覚」しているとも言えます。
「錯覚」ですから、真理とはほど遠いのです。

私達はそうは言っても「錯覚」とはいえ、楽しいものは楽しいで良いじゃないか! と言いたくなります。

たしかに、ほとんどの場合、別にそれで困る事はありません。
だからそんなつまらない考え方をする人もほとんどいません。

ところがお釈迦様は徹底的にクールに事実を教えてくれています。

先ほどそれで困る事はほとんどないといいましたが、私達は分かっていないのです。

よく観察してみてください、自分自身や周りの人々を。

本当に何から何まで困ったことにならずに、全てがうまくいっている人がいるでしょうか?

そんな人はどこにも見当たらないはずです。それは錯覚の楽しさを求めて行動しているからで、因果法則を無視した状態だからです。

楽しい、と思っても、因果法則に従うと、やって良い時と、悪い時があるものです。

錯覚(=感情)でやって良いと思って、やっていても、真理に照らすとやるべきではないこと、というものがありますよ!

良い結果を出したいのなら『錯覚』である自分の感情よりも『因果法則』である真理によって行動するべきですよ!

とお釈迦様は教えてくれているのです。

お釈迦様の慈悲

ところで仏教では、他人のことを心から自分の事のように思う気持ちを「慈悲(じひ)」と言います。
細かく分けると「」は他の生命の幸福を願う気持ち。「」は他の生命の苦しみが無くなることを願う気持ちです。
そしてさらには「喜捨(きしゃ)」という言葉もあり、「」は他の生命の願いが叶うことを願う気持ち。
」は他の生命に「智慧」が現われること(執着が消え、覚りに至ること)を願う気持ちです。

お釈迦様は人々に「何をやっても無駄ですよ」とか「人生なんて無意味だ」と言っているのではありません。

究極に慈悲の人であるお釈迦様は、むしろ人々のことをとても心配してくださっていたのです。

刺激を求め続けていても何も得るものが無いどころか、苦しみは100倍にも1000倍にも膨らむばかりなのです。

私達は自分と他人を比べたり、「自分は」、「自分が」、「自分の」と己(おのれ)に執着すればするほど悪い結果(苦しい、辛い、といった感覚)ばかり起きるものです。

そしてそれは誰にも避けられない真理としてそうなるのです。

ですので、このような事実不変の真理と向き合い、よく観察することを勧めています。

最初にご紹介した三法印、四法印には、物事をよく観察したときにだけ発見できる真理なのです。

  1. あらゆるものは変化し続けていて、何一つとしてとどまっている物は見当たらない(諸行無常)。
  2. 原因と結果である因果法則により変化するのだから、変化しない絶対的な「私」など、どこを探しても見つからない(諸法無我)。
  3. そのようにひたすら観察していくと心もまた瞬間、瞬間変化してしまう事も分かるし、心が執着しうるあらゆる対象物も変化してしまうのでさらに執着するほどの価値が無い(一切皆苦(一切行苦)
  4. 故に苦しみから抜け出す方法は、ひたすら欲、怒り、無知という煩悩を捨て、その煩悩のエネルギーでひたすら続けてきた輪廻転生から抜け出すこと。
    解脱(げだつ)することだけ(涅槃寂静)。

よく観察することでこのようなことが誰にでも分かります。(ただし、覚っていない私達には涅槃の状態はわかり得ないので「涅槃寂静」は観察できません。ただ真理を表しているだけです。

いづれにしても私達が憶えておくべきは、

主観や感情で物事の事実が見えていない状態だと、物事はうまくいかない、ということですね。

最後に

いかがだったでしょうか?

「あらゆるものには執着するほどの価値が無い」

これは究極的な話ではありますが、いきなり出家して仏道を歩むのは現実的に難しくとも、俗世間に生きながらでもできる行いはたくさんあります。

と言うか、仏教は他宗教のような閉鎖的な部分はないし、他宗教の信者であろうが、人間以外の動物や虫であろうが、全ての生命に共通して当てはまる真理を説いているので、私達在家の一般人でこそ、これを理解し、できることからでも実践(観察)しておくのが賢い生き方かと思います。

是非、あなたも

『普段の暮らしの中でできる仏教的行い』

から始めてみてください。

最後までお付き合い頂き有り難うございました。

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