「心を育てる」とはどういうことか

度々、初期仏教の話には「心を育てる」というキーワードが出てきます。

でも私達一般人には「心を育てましょう」と言われてもいまいち曖昧で、ピンとこないものがあると思います。

今回は、お釈迦様が説く、「心」とその「心の育て方」についてできるだけ簡単に説明してみたいと思います。

心とは何か

仏教が説く「こころ」とはずばり「感覚」のことです。

あらゆる生命は「感覚」があり、常に何か感じています。 つまり感じる事そのものを「こころ」と呼んでいます。

一般に勘違いされているのは、こころの事をまるで何か得体の知れない、いわゆる「魂」の様な概念で認識されているところです。 これは仏教の考え方ではあり得ないことです。

そもそも、「魂」とは何でしょうか? 意志のことでしょうか?意識のことでしょうか?人格の事でしょうか? いづれにしても誰にとっても「普遍的に認識できる何か」ではありません。

仏教は誰にでもすぐに確認できるものを頼りに、理性的に考えます。

心とは「感覚」であり、もう少し掘り下げるとそれは「感じるエネルギー」であることが分かります。

「感覚」ですから、例えば私達人間が感じる「視覚」、これも心のはたらき、と言えます.「光」というエネルギーが目玉に触れ、そこで光は跳ね返りますが、同時に「感覚」が生まれるのです。 そこで私達は見えるものの色や形を認識し、個々の主観によってそれが何か、と概念をつくり、見たものを元に、それぞれ違った認識をします。

こういうことで「視覚」「聴覚」「嗅覚」「味覚」「皮膚感覚」はすべて「心の働き」といえるのです。

ですから生きることは、ものすごいスピードであらゆる心(=感覚エネルギー)が生まれては消え、生まれては消え、と連続している状態なのです。

これらの5つの感覚器官を仏教では順に「眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)」と表します。
そして最後に重要な心の器官があります。
それを仏教では「意(い)」という単語で表しますが、つまりは妄想する脳のはたらきです。

コレを含める6種類の感覚器官が私達人間には備わっています。
これらの感覚器官から生まれる「感じるエネルギー」こそが「こころ」と定義します。

心はそもそも汚れている

私達人間は視覚や聴覚などで何も感じていなくても、頭の中であらゆる事を想像することができますね。

これを妄想といいますが、実際に起きていないことでも妄想することで、さも実際に起きているかのような感覚を生むことができるのです。
実際に妄想によって怒りをつくることもできるし、楽しかったことを思い出すことで笑うことなどもできるのです。
そしてわたしたちは大抵、一日中、妄想の世界に生きている、といっても過言ではありません。

こんな状態ですから、現に今起きていることなど、まったく見ていない、それぞれの主観で生きているともいえます。

いつでも何かする度に偶然、うまくいくこともあれば、いかないこともある、といった曖昧な結果に終わるのです。

世間ではよく、生まれたての赤ちゃんは「純真無垢で汚れがない」とか、「まるで天使のよう」などと表現することがありますが、仏教では徹底的に理性で観察していきますから、事実はそんなことは無いことが分かります。
私達は生まれたときから、極めて主観的で、自分の感情のまま生きているのです。気分がよければ笑うし、不快なら容赦なく泣き叫ぶのです。
つまり私達(生き物はすべて)は、生まれた時からずっと、周りで起きている事実よりも自分の感情に振り回されているのです。

こういった感情を「渇愛(かつあい)」と呼びますが 「生きたい」という強い感情によって生命の心は延々と、とどまること無く生まれては消え、生まれては消え、何でも良いから刺激をもとめて回転している状態とみることができます。

「心」はエネルギーですから肉体がやがて死んでこわれても、ぱったりと消えて無くなる道理はありません。
なぜならこの世で何一つとして、存在していたものが急に何も残らず消えてしまう、といったものは確認できないからです。
「心のエネルギー」もまた、常に直前の状態に似た状態で次の瞬間も引きずって現われる、ということは容易に推測できます。
 私達はそういう延々と続いている現象の一部である「身体の機能が停止した状態」を勝手に「死」と呼んでいるに過ぎません。

心のエネルギーにとっては常に身体と一緒に変化しているだけですから前世でも今生でも来世でもその節目など関係ないのです。ただ脳みそが機能しなくなり、思い出す能力を失うだけです。(記憶がなくなっているわけではなく、思い出す能力を失っているだけなので、その能力を身につけることで記憶が蘇ることは実際にあるようです。)

こういう考え方をしてみると、難しい「輪廻転生(りんねてんしょう)」の話も少し分かりやすくなると思います。

話は少し逸れましたが、つまり私達の心は、生まれてきた時点で「汚れている」といえるのです。

心の汚れの落とし方

そこで、生まれつきの私達の心の汚れを落とすにはどの様にしたら良いのでしょうか?

仏教を学んでみて本当に感銘することは、こういった事もしっかり分かりやすく教えてくれていることです。 ただ「心はもともと汚れているからしょうがない」ではなく、だからこそどのようにして汚れを落とし、より良い人生に変えるべきか、といった視点で誰にでもオープンに説かれているのです。

心の汚れとは

ところで、「心の汚れ」とはいったい具体的には何のことを言っているのでしょうか。

心の汚れを分析していくと仏教教理学ではものすごく多い数になるようですが、一般の私達が憶えておくべきは全てを大別した3種類の感情のこと、すなわち煩悩です。

  1. 貪り(むさぼり)
  2. 怒り(いかり)
  3. 無痴(むち)

仏語ではこれを貪・瞋・痴(とん・じん・ち)の三毒と言いますが、これらを克服することで人格が向上し、出家者にとっては真の目的である解脱への道となり、私達在家者にとっても克服を目指す努力そのものでより良い人生が送れるようになるのです。

心の汚れが無くなると

貪・瞋・痴(とん・じん・ち)の三毒が無い状態は不貪(ふとん)・不瞋(ふしん)・不痴(ふち)といいます。

欲が無く、怒りが無く、冷静で落ち着いていて物事を客観的に、事実をありのままに感じている状態です。お釈迦様の人格はまさにこれにあてはまります。

この状態が実は私達にとってとても清々しく、幸福感に満ちている状態と言えるのですが、私達はなかなかそれに気がつきません。

普段から周りにはテレビ、ラジオ、インターネットなどの情報メディアでは欲を掻き立てることばかりですし、一歩家をでれば世の中は様々な出来事が起きていますから、私達個人個人にとって気に入らないこともたくさんあります。
なかなかすべてをありのまま受け入れる、ということは難しいのです。

それよりもこころは、自分の好きなものや興味のそそるものに敏感で、そういったもので刺激を受けることで「コレこそが生きがい、楽しみ、幸せだ!」と勘違いしてしまいます。

そして気に要らないこともまた、「ああ~いやだいやだ!」と思うことで妄想を膨らまし、さらに心に刺激を与えて「生きている」という実感を得ようとするのです。

しかし事実として刺激ばかり求める生き方では幸福どころか坂道をころがるようにますます苦しみが増えるのです。

欲はとどまることを知らず、やがて自分の身体を蝕んでいき、周囲の人々をも巻き込み迷惑をかけることになりますし、怒りもまた自分と他人の身体を破壊するエネルギーを持っています。

楽しんでいるはずがとても苦しい人生と変わるのです。

ですから逆に、そんな心の汚れに気づき、削ぎ落とすことだけで人生は劇的に清々しいものと変わるのです。

心を育てること

ここまで心について理解が進んだところでいよいよ本題です。

私達が心を育てる方法。それには2つのやり方があります。

一つはサマタ瞑想。これは心の統一を図る瞑想法です。

もう一つはヴィパッサナー瞑想。こちらは気づきの瞑想とも呼ばれています。

サマタ瞑想

「サマタ」(Samatha)とは、パーリ語で「落ち着く」「冷静になる」といった意味があります。

環境に左右され、いとも簡単に乱れてしまう心を、落ち着かせるために意識を何か一つの事、またはものに集中させることで冷静を取り戻す、と言うようなことは実は私達はよく使う方法でもあります。

つまり意識を一点に集中させることで他の物事から心が切り離されるわけですね。
私達にも馴染みのある写経や禅宗で行っている座禅も言わば「サマタ瞑想」ですし、カトリックなどの教会で賛美歌を歌ったり祈ったりして、心が落ち着けばそれも「サマタ瞑想」と呼べるものです。

ただしサマタ瞑想にもいくつか段階があり、より深い、真の心の喜悦感を味わうには写経や念仏を唱える程度では至らないようです。

真剣に集中し、サマタ瞑想を修行した者に限り、真の愉悦感(例えるなら全身の細胞レベルから喜びが湧き出てくるような感覚)を味わう事ができます。

心を統一させるだけで見ることもせず、聞くこともせず、嗅ぐこともせず、食べる事もせず、触れることもせず、全身に喜悦感、幸福感をもたらせるのです。

そうなることで始めて普段私達が「楽しみ」と思い込んでいるあらゆる事は、いかに物質に依存しているかがわかるようになり「欲に執着することは苦しみが増える生き方である」「物質的な欲に執着することは愚かな生き方である」「欲の世界から離れてみよう」という思考にたどり着きます。

では私達ごく一般人がサマタ瞑想をしてみようと思った時、いったい何を対象に集中すれば良いのでしょう。
その答えが「慈悲の瞑想」です。

慈悲の瞑想(じひのめいそう)

数あるサマタ瞑想の中でもお釈迦様がすすめるのは「慈悲の瞑想」です。

厳密には「慈悲(じひ)」だけではなく、さらに「喜捨(きしゃ)」を加えた慈・悲・喜・捨の4つの心に集中する瞑想です。

  1. 「幸せでありますように」
  2. 「悩み、苦しみが無くなりますように」
  3. 「願いがかないますように」
  4. 「智慧が現われますように」

これがそれぞれの意味ですが、残念ながらこういった気持ちは私達人間に、生まれつき常にあるものではありません。
もし常に、人間が生まれてから死ぬまでこういう心で生きるのなら、この世に悩みや苦しみなど皆無であるのは誰にでも想像できると思います。
生きとし生けるものすべてに対してこのように思う事を決心し、まずは強引にでも頭の中で繰り返し唱えることをしなければ慈悲喜捨の心は育つどころか生まれもしないのです。

繰り返すことでクセが身につく、といった心の習性を利用し、「私は絶対に全ての生命に対して慈悲喜捨の心を育てるのだ」と強い意志で取り組む必要があります。

お釈迦様は頭の中で集中してこれらの言葉を繰り返し唱えていく方法を教えていますが、とかく私達は主観的で利己主義なため、いきなり他人に対して幸福を願おうとしても感情がついていきません。
なので、祈る順番が大事とされています。

まずは自分、そして、近しい身内や友人などの親しい人々、そして最後に生きとし生ける全てのものと言った順番に頭の中で祈り、唱えます。

  1. 私が幸せでありますように」(慈)
  2. 私の悩み苦しみが無くなりますように」(悲)
  3. 私の願いが叶いますように」(喜)
  4. 私に智慧が現われますように」(捨)

やってみると分かりますが集中を途絶やさずに続けるのは相当難しいです。

難しいですがひたすら続けます。

次は「」の部分を「親しい人々」に変え、その次は「生きとし生けるもの」に変え、再度「私」にもどり、繰り返します。

このように時間をつくっては可能な限り瞑想を続けることでその効果は絶大に高いとされているのがこの「慈悲の瞑想」です。

ヴィパッサナー瞑想

サマタ瞑想は正しく実践すれば物質世界から離れられる効果がありますが、完全ではない、とされています。
集中し、実践している時は良いのですが、その効果はその時だけで終わってしまうのです。

心が荒れているときなどに行えば、ひとまず落ち着きを取り戻せるが、その心がずっと続くわけではありません。 いわば応急処置としての方法のようです。

一方、ヴィパッサナー瞑想とはどのような瞑想法かといえば、心の悪玉である貪・瞋・痴

を根本的に不貪・不瞋・不痴の状態に変えていく方法です。

ヴィパッサナー(vipassanā)はパーリ語で、「観察する、分析してよく見る」といった意味があり、つまりは「物事をありのままに見る」という意味を持ちます。

目、耳、鼻、舌、身体、脳で感じたことをそのまま実況するように、頭の中で確認します。

歩いているとしたら、「右足が地面に着いた」

「左足が地面から離れた」「上がって前へ動いた」「そのまま下がって地面に着いた」「右足が地面から離れた」・・・・

実際に感じてから実況します。
途中であらぬ事を妄想してしまったら、それに気が着いた時点で「妄想妄想妄想」と実況します。

そのように集中しながら今現在、自分の身体に起きている事をどの部分に意識を向けても良いので、感じた感覚を頭の中で言葉で表現して、ひたすら実況中継するのです。

心の習性

私達の心は法則として、「同時に同じ事は感じられない」といった習性があります。

例えば食事する、と言う行為の中では手で箸を使い、目で見る、鼻で嗅ぐ、舌で味わう、と言った動作を同時にやっているようですが、よく分析していくとそれは同時ではなく、瞬間瞬間、順番に感じているものなのです。
私達は無意識に、あまりにも速いスピードで切り替わる感覚をまるで同時にしているかのように錯覚していますが、決して心の感覚とは、同時に感じることはできないのです。
ですからおしゃべりに夢中になって食事していれば、食べ物の味などほとんど感じていないのと一緒です。

これは何をするのも同じなので是非意識して自分の行動による感覚を観察してみてください。

お釈迦様のすすめるヴィパッサナー瞑想とはつまり、こういう心の習性を利用して、常に有らぬ心の妄想(あるいは暴走)を断ち切ることにあります。

瞬間瞬間、暇さえ有れば自分の感情に支配され、ものごとを「主観」というフィルターを通して判断し、妄想ばかりしている私達が唯一、心の落ち着き、安らぎを得る方法は、妄想を断ち切り、ものごとを徹底的に客観視することから始まります。

万事、常に、自分の今、感じている感覚を頭の中で実況中継していくことで、他の無意味な妄想を止めることができます。
そうすると、仕事していても今、自分のやるべきことに瞬間瞬間、感覚を研ぎ澄ませられるので、良い結果が得られる。良い結果を得てもなお、浮かれること無く、今、感じる感覚に集中する。
そしてさらに良い結果が連続する。

これを続けることで集中力も高まり、ものごとにいちいち感情を揺さぶられなくなります。
結果的に心は「不貪・不瞋・不痴」

となり覚りの人となるのです。

まとめ

私が理解している限りに「心を育てるとはどういうことか」を説明してみましたが、慈悲の瞑想にしても、ヴィパッサナー瞑想にしても何より続けることが大変です。

事実として、この世には覚っている人が稀有なのですから難しいのは当然といえば当然ですね。
物質に心が依存している現代には過去の時代よりも覚る人が減っていく、という事は2600年前の時代の人であるお釈迦様はすでに見通していたそうです。

それでも、私達に残された真に幸福になる道は今も昔も変わらず唯一「心を育てること」にあるのです。

サマタ瞑想やヴィパッサナー瞑想は、私には説明しきれない部分がたくさんあります。

ご興味のある方はより専門的な方のご指導を受けるとよいと思います。

日本テーラワーダ協会公式サイトはこちら

初心者にも分かりやすく説明してくれるおすすめ参考図書↓:

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