幸せの法則、四箇条!!

近頃「マインドフルネス」という文字をよくネット上で見かけます。
ざっくり言ってしまうと心のケアの一種のようです。それだけ、世の中気疲れして、心を癒やしたいと思う人が増えているのでしょうか。

ここ数年、私も個人的に感じている事ですが、精神的に疲れている人、または完全に気を病んでしまっている人が増えていると感じます。

元気が無く、コミュニケーションをとるのが辛そうな人々はわりと身近にもいますし、ひどくなると「鬱病」や「統合失調症」と診断されている人もいます。

それらの病気そのものについては素人の私が何か言える事はありませんし、精神疾患は多種多様です。悩まれている方は専門の医師に受診するのが一番かと思いますがこころの病は、誤った思考や妄想がつくりだすこともあるようです。

このページでは、ブッダであるお釈迦様が説いた教えの中から、幸せになるために知っておくべき「この世のどうしようもない真理を4つご紹介します。

なぜ真理を知っておくと心が楽になるのか

はじめになぜ真理を知る事で心が楽になるのか?について考えてみましょう。

真理とは、この世界のありのままの真実です。

だれの主観も入らないどんな生命にも共通していえることですから「事実」や「現実」という言葉とは違います。

「事実」や「現実」では例えば私とあなたが同じ雲を見たとき、私にとっての雲の見え方とあなたにとっての雲の見え方は違うはずです。

でも私にとってはそれが事実であり現実ですし、あなたにとっても同じでしょう。
「真理」というのはどんな生命及び万物にも共通して言えることであり、私達が生きる世界の法則ともいえます。

例えば科学の世界の法則では1+1=2ですね。これは誰にも変えがたい事実ですから誰にも否定できません。

ではこの事実、もし知らなかったらどうなるでしょう。困りませんか?知らなくても幸せに生きてはいけるかもしれませんが、どちらかというと人生においてあらゆる面で困ることになるでしょう。

それから「ヤカンに水を入れ火にかけるとお湯になる」ということも真理です。
物質的な観点では私達は普段から当たり前のように知っていて、その法則に基づいて行動しているものです。
ですから私達は結構便利で快適に暮らしていたりもします。
法則は知っておいた方が良いのが分かりますよね。

ところが心についてはどうでしょう? 仏教で「こころ」といえば「認識するはたらき」と定義しますが、私達人間はこころについては、あまりにも無知です。

こころにも物質と同じように法則があるのですが、皆、自分勝手な感情に邪魔され、真実が見えない状態です。そこが問題なんですね。

私達人間は感情ではなく理性で行動するほど良い結果が生まれるはずですが、つい自分の期待や願望で物事の認識をねつ造してしまいます。
本当は事実をありのまま受け入れる方が良いはずです。

「真理を知っておくと心が楽になる」というのは身勝手な期待や願望がなくなるからです。

私達は何でも期待や願望が強ければ強いほど、叶わなかったとき、凄くストレスを感じます。こういうことが繰り返されると、心は疲弊していきます。
ですから期待や願望ではなく、今起きていることを、よく観察し、法則を見極めて行動することでストレスはおろか、清々しく、淡々と生きていけるようになるのだと思います。

この世の4つの法則

では、中部経典に書かれている「ラッタパーラ尊者」にまつわる話で説かれているこの世の4つの法則をご紹介します。

1)
Upanīyati loko addhuvo(ウパニーヤティ ローコー アッドゥボー)
世は常に劣っていく、常住ならざるもの

この世のものはどこを探しても変化しないものはありません。これは私達にも分かる話ですね。すべては瞬間瞬間、現われては消える、の繰り返しで現われた次の瞬間には衰え、そして消える。また現われる。その時間的長さはさまざまですが必ずいかなるものも刻々と衰えていきます。
この事は自然を観察してもわかるし、世界の歴史をみてもそうですね。一番わかりやすいのは自分の体が分かりやすいのではないでしょうか?
でも私達はこれを見誤っています。

この事実を直視しようとせず、必死に何かを長持ちさせようとか、若返ろうとかいろいろやっていますが、無理な話なのです。

2)
Atāno loko anabhissaro(アターノー ローコー アナビッサロー)
世は頼りにならない、支配、管理できないもの。

この世はだれか個人の思惑で動いているわけではありません。あらゆる因果法則が複雑に絡みあい変化し続けています。これは当たり前な話なのですが、意外と分かっていないものです。
例えば天気はだれにもコントロールできませんよね?でもつい晴れて欲しい時に雨が降ればイラッとするなりがっかりするなり、こころが暗くなったりと感情的になるものです。 本当にこの真理を理解するひとは天気くらいでいちいち動揺せず落ち着いているはずなのです。
つまり、あらゆる事は自分の思い通りにならなくて当たり前ということですね。

3)
Assako loko sabbam pahāya gamanyīam(アッサコー ローコー サッバン パーヤ ガマニーヤン)
この世で何ひとつも自分のものにはならない。すべて、置いて去らなくてはならないもの。

私達は「自分が~」、「自分の~」、「自分のもの」に関することではすごく心が振り回されます。

自分以外ならどうということはありません。
まして「どこかの誰か」のことならなおさらまったく動じないものです。

しかしこれも真理とかけ離れた邪見です。本当は「自分」という不変的なものは存在していません。

私達もあらゆるものと同じように瞬間瞬間変化し続けているのですから。

にもかかわらず、「自分」にものすごく執着しているのが生き物なのです。 この執着からの脱却こそ仏教が勧めている道です。

ここでスッタニパータという経典に出てくるブッダの言葉をご紹介します。

世間では必死になって自分のものを増やそうとしています。珍しい者や高価な物に執着心を燃やしますね。でも本当はこれはマーラ(悪魔)の囁きです。

まず、マーラが説きます。
子がいるものは子で喜び、牛(財産のこと)があるものは牛で喜び、執着に値する者は人間にとって喜びなので、何も無い人には喜びはありません。
これに対してブッダであるお釈迦様が説きます。
子がいるものは子で悩む。牛がある者は牛で悩む。執着に値するものは人間にとっては悩みなのです。無執着の人に悩みは無い。

仏教は物質主義の世間とは真逆な道を説いています。

なんともクールな教えだと思いませんか。 私としてはかなり共感できる部分だと思います。

仏教は一方的に人間が「どの様に生きるべきか」を説いているのでは無く「生きるとは何か」を説いているのです。

ですから他の一神教の宗教とは明らかに説得力が違います。 誰にでも自分で確認して納得できる事実だけを説いているところが良いと思います。

話は逸れましたが、とにかくこの世のあらゆるものは「自分のもの」にはできません。 身につけた知識や技能でさえ歳と共に抜けおちて、最後は置いて去ることになります。

4)Ūno loko atitto tanhā dāso(ウーノー ローコー アティットー タンハー ダーソー)
この世は常に満たされない、満足しないもの

「どんな人間でも満たされることはありません。」これが真理だそうです。
私達人間は欲の奴隷のようなもので、何か欲求を得ても次の瞬間にはもう満たされていません。

食べ物にしても何か他の刺激にしても「完璧」はあり得ないのです。
なぜなら私達の感覚自体完璧ではないし、すぐに心が回転しますから満足している暇さえ無く次の瞬間には違う何かを欲しているはずです。

これもよく自分の心の動きを観察してみると分かりますよね。 仏教ではこういう心のはたらきを「渇愛(かつあい)」といい、こころが飢えた状態を指します。

その状態がこの世の法則だと言うのですからなかなか厳しい話ではありますね。

ただ、これは要するに「どんなものにも執着するほどの価値はないですよ」ということでもあります。

そう理解することでこころが楽になりませんか? 何も無理して欲を満たそうとする必要がなくなりますから。

仏教には覚ったものだけの境地である「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」という言葉がありますが、私達が本当の意味で満足したいのであればひょっとするとこの「涅槃寂静」を目指すしかないのかもしれません。

最後に

如何だったでしょうか? ちょっと説明が不十分(私もまだまだ未熟者なぷ凡夫なもので・・・)だったかも知れず恐縮ですが、理解すると今までより気楽に淡々と生きていけそうな気がしませんか?

少し心が疲れたなあと思った時、今回のこの世の法則を思い出してみてはどうでしょうか。

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