お金か愛か? は究極の愚問

世間では時々、究極の選択として「あなたはお金と愛、どっちを重視するか?」

的なテーマが上がることがありますね。

特に若い頃などは仲間内でこんな話も盛り上がるかも知れません。

今回はこのテーマを仏教の視点で考えてみたいと思います。

結論

いきなり結論から。

結論:「お金か?愛か?」は質問として成り立たない

この質問は(幸せになるためには)お金と愛、どっちが大事なのか?

と言った趣旨だと思いますが、少し分析してみれば質問として成り立っていないことが分かります。

言葉には気を付けた方が良い

ところで、お釈迦さまは真理を発見し、究極的にものごとを「ありのままに」見る能力を開発しました。

そのような人がいざ、主観でしかものごとが見極められない私達に真理を伝える際、最も気を遣っていたのが言葉です。

例えば「梅干しの作り方]を教えるとします。

教える相手が2人いたとして、1人は梅干しは知らないけど梅の木もその果実も知っているとしましょう。

一方もう1人は梅の木すら見たことが無いとします。

この場合、梅の木もその果実も知っている人の方が教えるのは簡単ですね。

知らない人には作り方を教える以前にその材料についてひとつづつ、共通認識の確認を行わなくてはならないからです。

お釈迦様は何か説明する際には伝える相手の言葉の理解力に十分気をつけながら説法していたそうです。

常に相手がどの様に認識し、理解できているか確かめながら説法を進めました。

そうしないと話をしている2人が同じ言葉を使っていても認識概念がまるで違ってしまう、ということになりかねないからです。

一神教のように「誰かが聞いた実在の確認のしようもない神の声」を不特定多数に向けてつらつらと書き並べていった聖書の教えとは全く異なります。

お釈迦様は究極的にものごとを客観的に分析する能力を得た人(覚者)として実在していた人ですからここでも他宗教とは大きく違います。

で、話は戻って「大事なのはお金か?愛か?」

これを考える際に、世間の多くの人の大きな間違いは、「愛」という言葉の定義がまるで定まっていないのにもかかわらず皆、同じ概念があることを前提に話を進めるところにあると思います。

「愛」の定義

「愛の定義」をネットで調べてみても、結局主観的な表現が多く、しっくりこないものですが、多くの辞書では「慈しむこころ」という語義が使われています。

しかし「慈しみ(いつくしみ)」という単語は一般に普段から使われている言葉でもありませんし、私達が使っても、はっきりと意味が伝わる単語でもない気がします。

なぜなら私達日本人でも、仏教を正しく学んだ経験はほとんど無いからです。

辞書の意味したいのは「見返りを求めない思いやり」という事だと思います。

見返りを求めない思いやり

これなら私達日本人にはしっくりくるはずです。

では逆に「見返りを求める思いやり」

または「見返りを求めるやさしさ」

これも愛の一種でしょうか?

これは明らかに違う、と分かりますよね。

つまり「大事なのはお金か?愛か?」を議論する際には

愛=見返りを求めない思いやりや優しい気持ち

として共通の概念を確認して持っておくことが前提となります。

仏教の愛、とは

愛=見返りを求めない思いやりや優しい気持ち

と私なりに定義しましたが、実は仏教では

見返りを求めない思いやりや優しい気持ち慈しみ

となります。

仏教では多くの辞書でもあるように「見返りを求めない思いやりや優しい気持ち」、のような心は「愛」とは言わず「慈しみ」というのです。

仏教用語で「慈しみ(いつくしみ)」 という語がありますが、この言葉の意味を、あくまでも自分なりに説明してみようと思います。 ...
https://ruppatiti-rupam.com/aijou-wa-aku/

お金か慈しみ、どっちが大事か

ここまで整理してやっとスタートに戻って

「(幸せになるために)大事なのはお金か慈しみか?

を私なりに考えて見たいと思います。

・・・

やはり、質問が成り立っていない気がします。

なぜかということ、私達は多かれ少なかれ「お金」は誰でも持っていて毎日のように扱っている人間社会でのただの道具です。

一方、「慈しみ」は人間社会といったカテゴリーから飛び抜けてあらゆる生命全体の心(エネルギー)の一種です。

そして慈しみとは無限に広がる力を持っています。

ところがこのエネルギーは残念なことに私達に生まれつきあるモノではありません。

持っていないモノは開発して育てるしかありません。

お金は経済活動に参加すれば最小限、手にできますが「慈しみ」はそう簡単に手にできないのです。

しっかり正しく学び、実践しなくてはなりません。
にもかかわらず、現在の人間社会にはこのような教育は見当たらず、まして実際に慈しみを努力によって手にしている人は皆無に等しいくらいなのです。

そのような訳で、誰でも多かれ少なかれ持っている「お金」と誰も持ち合わせた経験の無い「慈しみ」を主観で比べることは不可能です。

仏教だけが教えてくれる真理

主観で比べることは不可能、と言いましたが、仏教では慈しみの重要さを説いていますので、そこに照らして考えてみます。

心の育て方についてはこちらの記事で書きましたが

度々、初期仏教の話には「心を育てる」というキーワードが出てきます。 でも私達一般人には「心を育てましょう」と言われてもいまいち曖昧で、...

「慈しみ」は心のエネルギーですから私達の今生で終わる話ではありません。

前世にも来世にも繋がっているものです。

他人に対して自分の事のように「苦しみを取り除き、楽を与えたい」と願う気持ちは果てしなく私達に想像もできないほどの幸福をもたらすはずです。

いくらあっても、肉体が死んでしまえば何も価値も持たない「お金」とどちらが大事か。

もう、答えはお分かりですね。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする