日々の子育てに追われるようになり、ふと自分の親について考える事があります。
自分が子どもの頃と我が子の行動。自分も似たようなことをしていたっけな、と思いながらも子どもに振り回されっぱなしの私。
大変な思いをする度に、「ああ、自分もこういう風に親に苦労かけていたんだなあ」と痛感し、はじめて親孝行についても考えてみたりするわけです。
世間にはいろいろな人がいて、様々な「親孝行」についての考え方があるかと思いますが、今回、私は例によって仏教の観点から親孝行とはいかに? 究極の親孝行とは何か? についてまとめてみたいと思います。
自分の命と親の関係
まずは自分の命と親の関係について整理してみます。
世間には様々な親子関係があり、そのパターンも千差万別、親子の数だけあることでしょう。
でも共通して言えるのは自分、というのは親がいてはじめて存在できている、
と言うことです。
当たり前のようなこと言っていますが、お釈迦さまは親のことを「命を与えた人」と定義していいます。
実はこの「命を与える」というのが、単純な話では無く、ものすごく貴重なこと、
でもあります。
人間に生まれる、ということ
そもそも初期仏教では、私達のこころは輪廻転生を元に、次のような世界を延々とさまよっていると説かれています。
- 天界
- 人間界
- 畜生界
- 餓鬼界
- 地獄界
この中で天界は、物質を持たない生命の世界、とされていますから物質、つまり肉体を持つ生命では人間界が最も生命にとってありがたい世界、と考えます。
それはなぜか。
よく観察すれば分かると思いますが、あらゆる生命でも人間だけが自分の行動を選べる、コントロールできる状態なのです。
それは心の持ち方次第で良い行いも悪い行いもできる事を意味します。
そしてお釈迦様は、「この中でも人間に生まれる、という事はものすごく可能性として少ないこと、稀有な事なのだよ」と説明されています。
いくつかの例えがあるようですがここでは「盲亀浮木(もうきふぼく)」という説法をご紹介します。
○盲亀浮木(もうきふぼく)の喩え
お釈迦様が問います。
「比丘(びく《仏弟子の意》)たちよ、たとえばここに一人の人がいて、一片の※軛(くびき)を大海の中に投げ入れたとする。
※軛(くびき):牛、馬などの大型家畜を犂や馬車、牛車、かじ棒に繋ぐ際に用いる木製の棒状器具
そして、その軛(くびき)には、一か所だけ孔(あな)があいていたとする。また、そこに一匹の目の見えない亀がいて、百年に一度だけ海面に浮かんできて首を出すという。そこで、汝らはいかに思うか。
その盲目の亀が、はたして、海面に浮かんできた時、その軛の孔に首を突っ込むというようなことがあるだろうか」
比丘のひとりであるアーナンダが答えます。
「お釈迦さま、もしそのようなことがあったとしても、相当経ってからのことでしょう。それはいつのことになるかわかりません。」
お釈迦様が答えます。
「その通りである。だが、百年に一度だけ海面に浮かぶ目の見えない亀が軛の孔に首を入れることよりも、なお希有なことがある。
それは、一度でも悪しきところ(畜生界以下)に堕ちたものが、また再び人間として生まれる、ということは、さらに希有だということである。」
この説法は漢訳経典では『雑阿含経』、初期仏教である南伝のパーリ語経典では相応部(サンユッタ・ニカーヤ)に出てくる教えを要約したものです。
如何でしょうか。人間に生まれることに、「有り難い」と思う気持ちが沸いてきませんか?
余談ですが私たちが使っている日本語の「ありがとう」はこの説法からきているともされています。
で、私が言いたいのは、
それほどの可能性の低い「人間として生まれてくる事」に最も力を貸してくれたのが両親である、
ということです。
自分自身の心の持ちようで、悪しき感情に振り回されること無く、しっかりとした理性的な生き方をするチャンスである今の人生、を与えてくれたのが両親なのです。
私達は輪廻転生を繰り返しているのなら、当然それは因果法則に則り、個人の業(積み重ねてきた行い)によってどんな生命になるかが決まります。
ですから、見方によっては自分が人間に生まれたのは自分の業なのだから、親は偶然の巡り合わせに過ぎないようにも考えてしまいがちですが、事実は違います。
なぜなら私達の業は条件が揃わなければいつまで経っても結果を得られないからです。
例えば大きな大木となり得るタネであっても条件である水や土、太陽が揃わなければやがて腐ってしまうように、どんな業を持っていたとしても自分一人で何かになり得ることなど全くあり得ないのです。
というわけで私達は自分一人の業で生まれることはできません。
絶対的に両親という存在が必要で、それはまた絶対的な感謝の対象なのです。
どんな親でも感謝すべきか
ではどんなに人間として道をはずれたひどい親でも大事にして、尊敬すべきなのでしょうか?
お釈迦は何事も徹底的に理性的に分析して考えるべきだと説いています。
この場合、自分が
生まれるまで、
と
生まれた後、
で分けて考えるべきだといいます。
自分が生まれる条件をそろえてくれたのは紛れもなく両親なので、持っていた自分の業を開花させてくれたわけですね。
ですからこの事にはやはりどんな親でも感謝しなくてはなりません。(ここまでの話を理解できれば自然と感謝の念は生まれてくるはずです。)
そしてその後は育ててくれる人が必要ですが、それは必ずしも実の親である必要はないのです。
大抵は実の親が育てることが多いですが、子どもは誰が育てても問題はないのです。
個人の業によって人生はいろいろなケースがありますが、親がいなくても代わりに社会の誰かがしっかりと育ててくれれば人は幸せにもなれますし、その逆も然りです。
親がだらしなかったり犯罪を犯すような人格なら、親と言えども尊敬できるわけもないし、する必要も無いようです。
その時は淡々と経済的に考えるべきで、自分に親を説得できる能力があるのなら自分の生まれるまでの恩返しとして改心させるように努めたり、自分に危害を加えるようならサッパリと関係を絶ち、突き放すのも親に対する躾ともいえるようです。
いずれにしても、どんな親でも
「尊敬する必要はないが自分を生んでくれた(生まれる条件をつくってくれた)恩は忘れてはならない。」
これが仏教的な考え方なようです。尊敬できるかできないかは、生まれた後の話で、それぞれ親の人間性次第なのだからとくに大事な事では無く、大事なのは恩を忘れないこと。
仏教には知恩(ちおん)、感恩(かんおん)、報恩(ほうおん)という言葉がありますが、恩を知らなければ恩を感じる事もできません。恩を感じなければ恩に報いる事もできません。
まずは恩を知ること、つまりこの場合なら自分が存在する原因を知る、ということで親に感謝する気持ちが持てるのだと思います。
親孝行と親不孝
自分の命と親の関係がはっきりしたところで、親孝行について考察してみます。
世間では親孝行とはどの様に認識されているでしょうか?
親孝行:
子が親を敬い、親によく尽くす行い
広辞苑第六版より引用
親孝行:
親を大切にし、よく仕えること
パーソナル現代国語辞典より引用
親孝行:親を大切にし、真心をもってよく尽くすこと。また、そのさまや、その人。デジタル大辞泉(小学館)より引用
私達は普通、子ども時代には親の有り難みがなかなか分からないものです。
やがて社会人になり家をでて、結婚し、自分が親になる、といったステップを踏む毎にひしひしと親の有り難みが分かってくるのでは無いでしょうか。
「親孝行したいときに親はなし」とはよく言ったものだなあ、と思いますが、やはり親孝行は親が生きているときにこそしたいものです。
では具体的にはどんなことをすれば親孝行なのか?と考えたとき世間では例えば、
- 旅行に連れて行く
- 何か親の喜ぶものをプレゼントする
などの、物質的な行為と或いは
- 両親に心配をかけないこと
- 世間に自慢できるような人間になること
などの精神的な行為
が親孝行だと考えられていますね。
たしかにこれらでも十分親は喜んでくれることかと思いますが、もっとスケールを大きく、理性的に考えていく仏教には究極の親孝行、といえる行為があります。
それは、「親にも徳を積ませること」
これ以上の親孝行はないでしょう。
仏教では、とにかく人間に生まれる、と言うことは大変有り難い状態とされています。
なぜなら、ただ延々と生きたい、生きたい、という強い衝動で、感情にまかせて刺激を求めながら生命を繰りかえすだけの生き方から、その輪廻から抜け出すための唯一の方法である、真理に則った生き方、に切り替えるチャンスがあるのは人間で生まれた時こそ、だからです。
そのようなチャンスを与えてくださったのが両親なわけですからその両親に感謝し、大事にするのはごく自然ななりゆきでもあります。
そして、まず自身が感情では無くしっかりものごとを「ありのままに見る」能力を身につけて、親がやがて死にゆく時、この世の未練などを持たずに心安らかに次の生へ移行できるように、今度は自分が輪廻の手助けできるように努めるのが究極の親孝行である、ということです。
簡単なことではありませんが、私にもできることもあると思います。
まず、自信が普段の生活の中でできる仏教的行いを実践してみたり、些細なことでも、人の役に立つことをいつも心がけて生きていくことで、親孝行に繋がっていくのだと思います。
こうして考えると親不孝の定義はもう簡単ですね。
親孝行に繋がる行為をしないことが親不孝、となります。
今生を与えてくれた恩を知らずに、他人に迷惑をかけながら感情的で誰の役にも立たない生き方をすれば立派な親不孝者となりますね。
もっともこのような生き方は自身が結果的に相当苦しみの多い生き方ともなるでしょう。
最後に
親孝行について仏教的な目線で考えてみましたがいかがだったでしょうか?
私自身、恥ずかしながら若いときには親の有り難みが全く分かっていませんでした。。
やがて今、自分が親となり、子育てのひとつひとつの大変さが昔、自分を育ててくれた親の行動とリンクし、育ててくれたことに対しての感謝の念が沸いてくるのです。
でも、感謝すべきはそれだけでなく、その以前、今生を与えてくれたことで、今こうして幸せに暮らす方法を得る機会を与えてくれたことに感謝しなくてはいけなかったのですね。
やはりお釈迦様の教えである初期仏教って勉強になります。