私達人類は長い歴史の中で、社会をつくって、その命を育んできましたが、文明の発展とともに、その人間関係も複雑になり、非常にストレスを多く抱え込むようになってきたようです。
今回は、ストレス社会にこそ効いてくる、人との付き合い方について、仏教から学びます。
友達付き合いに疲れた。
友達がいなくて寂しい。
友達とのトラブルに巻き込まれた。
そんな方々は特に参考になるかと思います。

「類は友を呼ぶ」はこころの法則。
まず始めに「サンユッタ・ニカーヤ」という仏教の経典にでてくるお釈迦様の言葉をご紹介します。
ブッダの言葉 |
「過去においても、比丘(びく)達よ、生命は自分の本性に合った生命と合致する。卑しい本性の生命は卑しい本性の生命と、善本性の生命は善本性の生命と合致したのです。
この法則は未来においても現在においても変わらない。」 |
おそらく、世界中で「類は友を呼ぶ」と同義のことは昔から言われていると思いますが、仏教の見地からもこれは真理として扱われています。
仏教では何よりも「人格の向上」を重んじますが、その修行の妨げになる人間関係に気をつけなさい、とお釈迦様は警鐘を鳴らしています。
世間でも良い人に出会い、付き合っていくと人生は幸せで成功しますし、その逆もありますね。
時々、私達は「自分ってどんな人間なのだろう?」と考える時がありますが、そんな時はまわりの人々をよく観察すると分かるようです。
そして、もし普段からよく付き合っている人々が、人間的に問題があるのなら、すぐに離れるべきだと仏教では教えます。
これらのことはつまりは真理なので、単なることわざや言い伝えレベルの話では無く、法則です。
どんな時代にも、どこの人にも、どういう思想を持っていても関係なく当てはまる話なのです。
他にもお釈迦様はこのように説いています。
ブッダの言葉 |
「本性が不信の人は不信の仲間と。
悪を恥じない本性の人は※不慚(ふざん)の仲間と。
悪におびえない人は※不愧(ふき)の本性の仲間と。
知識の無い人は似た仲間と。
怠け者は怠けの仲間と。
気づきの無い人は似た仲間と。
無知は無知の仲間と一緒になるのです。」 |
※不慚(ふざん):慚は【罪を恥じる心】。それが無いということ。
※不愧(ふき):愧は【自己の罪を恥じる心】。それが無いといこと。
世間ではよく子どもに「お友達は大事にしなさい」などと教えていますが、誰でもかれでも付き合いを優先するべきではないようです。
なぜなら人の性格は環境と受ける影響で決まるからです。
本性とは?
では私達の本性はどの様に決まるのでしょうか?
先ほど人の性格は環境と受ける影響できまる。と言いましたが、これは人の性格を形成する要素のひとつです。
仏教の観点から説くと人の性格を形成する要素は2つあり、
- 生まれたときから持っているもの(本性)
- 生まれた後に環境から受ける影響(学ぶことの全て)
によってできているとされます。
(1.)の生まれたときから持っている性格、というのは私達にはどうすることもできません。
無始なる過去から繰り返されてきた営みによってできた心です。
つまりこれがその人の「本性」と言えます。
生まれたばかりの赤ちゃんを見ればよくわかりますが、その時からすでにそれぞれの性格に違いが見られますよね。
皆、いわゆる業(ごう)によってそれぞれの性格を持って生まれるのです。
しかし、そこに(2.)生まれた後に受ける影響が生き方や価値観を生み、本性に上乗せされるので複雑でわからなくなるのです。
そこで人は、自分が居心地が良いと感じるグループをつくります。
それによって自分とは何者か、自分の存在意義やアイデンティティーなるものを感じて安心しているのですが、お釈迦様はそれは大変危険だ!と仰います。
なぜならそれが智慧の開発を阻害しているからです。
私達はいつでも自分が居心地よいグループに依存してしまうことで、まるでものごとを客観的に、理性的に判断できなくなります。
視野も狭くなり、考え方が主観的で偏ってしまいます。
時々耳にする言葉ですが「自分探し」なんていうのは、とても愚かな話で、単に自分と似た仲間が見つからない時に言っているのです。
とかく私達はいつでも、居心地の良いグループを探しています。
そしてその関係は実は、奪い合う関係でもあります。
なぜなら、自分にとって都合がよい相手が居心地よく感じるものだからです。
これ自体が良い、悪いではなく、世間でいう仲間とは大抵このような関係なのです。
仏教で教えているのは、こういった低俗な人間関係ではありません。
自分にとって都合が悪く居心地が悪くても、
道徳を身につけて人として正しい道を歩む人と一緒にいなさい。
見つからなければ独居しなさい、とまで言います。
人格を成長させたいと思うなら智慧を開発し、
善い人間になりたいと思うなら、居心地が悪くても優れた人格者と付き合うべきなのです。
性格の改良
ここまで結構厳しい話でしたが、もはや私達俗世間に生きる者にとって、性格を向上させることは不可能なのでしょうか?
仏教では、「かなり厳しいが不可能では無い」と説きます。
あくまでも人は人格向上を目指すべき、とする仏教ではその性格改良に必要な条件として次のことを勧めています。
- 本性に気づき、常に戒めること
- 理性を育てること
- 世間に対して「隠すべきもの」を持たないこと
- 諦めないこと
- 強い意志、意欲があること
- 何十年も良い性格を実行すること
どうでしょうか。性格を改良することがいかに難しい事かが分かると思います。
でも決して諦めてはならないのです。
少しづつでも向上を目指さなければ私達人間はかならず悪い方へ堕落します。
長いプロセスになりますが、例え、今生で達成できなくても向上を目指し、実践を続けることが重要です。そうすることで人生は充実し、生きる苦しみが減っていくのです。
まとめ
私もそうですが、人は日々の生活のなかで、どうも楽な方、楽な方へ流れてしまいがちですよね。
居心地が良い仲間と一緒で、その人と一緒にいて自分を善い方向へ高めてくれるのなら問題ないのですが、そういった善友と出会うことはとても稀なようです。
善友とは、自分の人格を高めてくれる人のことで、単に気の合う友達、親友とは全く違うようです。親友は横の関係、善友は縦の関係なのです。
善友(教える側)はそう意識しませんが、私達(教わる側)は善友に対して、敬意がなくてはなりません。
そうでなくては人格向上は成り立たないのです。
お釈迦様は仰います。 「善友と出会うことが、仏道実践のすべてです。」と。
その時点で修行の完成が約束されたくらい、重要な事なのです。
善い仲間に恵まれないなあ、と思ったとき。
私達はまずは自分が少しでも人に良い影響を与えられる人間になるぞ!と決心することが必要かもしれません。
「類は友を呼ぶ」のですから。
人格向上に役立つ話はこちらお釈迦様から↓
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