「仕事の悩みも解決してくれる教え」と題して仏教の観点から解決の糸口を探ってきました。
引き続き、私達は仕事が嫌になってしまうとき、どの様に思考を変えて行けば良いのか、私なりに考えてみます。
【前編】はこちらです↓
http://ruppatiti-rupam.com/sigotononayami1/
目次
上司や部下、同僚との人間関係がうまくいかず、衝突したり、コミュニケーションに疲れる場合
仕事上の悩みで最も多いのが「人間関係」ではないでしょうか。 ストレスを感じる時というのはえてして対人関係に多いものです。
これについては、仏教のもっとも得意とする分野だと思います。なぜなら古今東西、どこを探しても初期仏教以外に「こころ」についてよく分析し、解明している教えはないのです。
「こころ」について徹底的に分析し、私達に分かりやすく明らかにしてくれたのが、お釈迦様です。
ですから、しっかりとブッダ(覚者)である、お釈迦様の教えに習って実践してみれば誰でも人間関係に悩まされることはなくなるはずです。
「心」についてはこちらのページ↓
具体的に考える
人間関係で疲れを感じている人は、まず自分がどういう場面でどうして、ストレスを感じるのか?を分析してみてください。
ただ漠然と「上司が生理的に受けつけない」だとか、「同僚や部下の言動にイライラする」とか考えていても、何も解決しません。
あくまでも主観ではなく、客観で、自分がストレスを受けている時の、その状況を傍から観察するようにイメージしてみてください。
イメージした時、その状況は本当にストレスに感じるほどのことでしょうか?
あなたの貴重なエネルギーを消費するだけの価値のあることでしょうか?
人間関係の悩みの例をいくつか挙げてみます。
- 考え方が合わない(人生観・趣味趣向が合わない)
- 理不尽で尊敬できない
- 嫌味な言い方をする
- 性格が悪い(意地が悪い)
- 生理的に受け付けない
- 部下の育成がうまくできない
これらはいくつかのサイトから「職場の悩み」の上位に挙げられていた例です。
こう並べて、客観的に見ると、すべて個人的なわがままな様にも見えますが(笑)、当事者になると笑ってはいられない問題なんですよね。
1つずつ対処法を考えてみましょう。
考え方が合わない(人生観・趣味趣向が合わない)人への対処法
私達はいつでも主観的にものごとを見てしまいます。 これは生命全てに於いて共通していることですが、とかく人間はそれに付け加えて、過去や未来のことにまで及んで、それぞれ勝手な妄想を膨らませてしまいます。
でもそれは邪見です。事実とは異なります。
人と人とが衝突するのは、それぞれの育ち方、生き方がそれぞれに違うのでむしろ気が合う、ということの方が非常に稀なのです。
まず、意見が合わない、とか気が合わない、というのは正常な状態と捉えましょう。
もし、考え方が合わないのが上司で、あなたが従わなくてはならない立場なら、従えば良いだけです。頑固に拒んでいては組織人として失格でしょう。
お金が発生する仕事というのは個人の願望にはあわせてくれないものなのです。
とくに複数の組織でなければなりたたない職業の場合はなおさら、個人の願望希望はほとんど通用しないのが道理です。
ここでネックになるのは、仕事を生きがいにしてしまっている人です。こういう人は人と対立しやすいのです。
仏教の視点では、お金を稼ぐ仕事だけを生きがいにするのではなく、もっと広い意味で、人の役に立つことを生きがいにするべきです。
もっと言えば、生きがいにすべきは、心を育てること。
もともと放っておくと、どんどん自己中心的な主観ばかりでものごとを考えてしまう私達ですから、そこは努力して、人のことを考えなくてはいけないのです。
そうしなければ年をとる毎に、苦しみが増えていくのがこの世の摂理であり法則なのです。
ですから、最初は嘘であろうが偽善であろうが、他人の幸福を祈り、抜苦を願い、喜びを祝い、智慧が現われることを望む。
これが仏の道となっています。 この道を進めば人生は安泰。何も心配することはないのです。
さらっとさわやかに要求されたことをこなすのが理性的な働き方だと思います。
理不尽で尊敬できない人への対処法
これは「理不尽」と「尊敬できない」を分けて考えましょう。
人が「理不尽だなあ」と思うのはどんな時でしょうか。おそらくこれは自分の上司やリーダーへの不満ですね。
道理として、やるべきでないことをやらされたり、やらなきゃいけない事を止めさせられたり,といったことでしょうか。
滅茶苦茶なことを強制されるのは確かに、誰でも嫌ですよね。
その場合は、その滅茶苦茶さが、どういった類いのものかをよく考えてみます。
道理に合わないことでも、次の場合以外なら気にせず、サッと従っておけばそれ以上気にする必要はないはずです。
- その指示自体が犯罪(法律上の)になる場合
- 指示に従うことで誰かが法律上の罪を負うこと
- その指示が人としての道徳に背く場合
もちろんこれらの場合は、やってはいけません。理由は、人の為になる、役に立つ、といった仕事の本質と真逆だからです。
こういった行為を続ければ人は確実に苦しみの多い、不幸な人生に終わるのは明白です。
上司がこれらの行為を強制してくるような会社は、とうてい長続きするはずもありません。すみやかに転職を考えるべきです。
自分が何とかしよう、などと、まともに相手になる必要すらなく、賢くその場を去るのが一番でしょう。
でも案外、仕事していて理不尽だなあ、と思うことって、これら以外の事の方が多いものではないでしょうか?
立場上、自分が命令を聞かなければならないのなら、さっとやってしまえば良いと思います。責任は上司にあるのですから。
他人の言動の全てが納得がいくもの、と思うこと自体が間違っているのです。
自分が納得がいこうがいかなかろうが、仕事としてその時に自分に求められていることなら、その中で自分なりにできる限りにやっていれば良いのです。
どんな上司やリーダーでもを反面教師としてみれば、何かしら得るものはあるはずです。
そして自分がその立場になった時に生かせるように、学ぶ姿勢こそが大事でしょう。
次に「尊敬できない」について考えます。
仏教では、尊敬は誰にでもすれば良いというものではないのです。
お釈迦様は「道徳を身につけて人として正しい道を歩む人」と一緒にいなさい、と説いています。
その場合にのみ、相手を敬うのです。 自分を正しい道に導いてくれる人こそが「尊敬」の対象なのです。
上司だから、先輩だから、と言ったことだけで尊敬できなくても全く問題はないのです。
ただし、これは相手を「見下して良い」という教えでも、もちろんありません。
相手が誰であろうと、自分にはないものを何かしら持っているはずです。あくまでも謙虚にいる必要はありますね。
嫌味な言い方をする人への対処法
これも要は、とらえ方次第でしょう。他人の言動をコントロールすることは真理として、ほとんど無理なのです。
それよりも、自分の心なら最もコントロールしやすいのです。
私達は油断しているとすぐに自分勝手に事実をねつ造して解釈してしまうようです。
人が喋った「音」を聞いた時、すでに相手のキャラクターに先入観をもっていると、相手の言葉に自分勝手な意味を付け加えてしまう。
その内のひとつが「嫌みな言い方」として表現されているだけだと思います。
事実はただ相手が思ったことを言葉にして出しただけでしょう。
それに対していちいち心を揺さぶられないことが重要で、私達はいつでも理性的に、自分に必要な情報だけを聞き取ることに専念した方が楽に働けます。
つまり軽く、受け流すのが賢くて、クールで、かっこいい生き方なのです。
性格が悪い(意地が悪い)と思う人への対処法
ここまで来るとだんだん、分かってきましたよね。
世界は個人の都合、願望で回っていないのです。 自分の周りの人がすべて性格が良い人であるなら、大いに幸せですが、では自分の性格はそんなに良いのでしょうか?
仏教的には性格を向上させることはとても重要で、まさに仏教の全てと言っても過言ではないくらいの事です。
それは、その位、私達人類にとって難しい事、とも言えるのです。残念ながら、世界は自分の希望通りのキャストで自分を取り囲んではくれないのです。
まず、率先して自分が、貪らず、怒らず、理性的な物の見方ができるよう精進することをオススメします。
生理的に受け付けない人への対処法
・・・これは「仕事の悩み」とは言えませんね。単なる悪口でしょう。
別に恋人を探しに職場に来ているのではないのですから、個人的に「この人、生理的に受けつけないなあ」と思うのであれば、それなりに距離を置いていたら良いと思います。
また、仕事以外のことで執拗に迫ってくる上司などがいるのなら、端的にはっきりと思う事を言うべきです。
言わなくても態度で分かってほしい、などとは考えてはいけません。
仏教の視点から見ても「言わなくても分かる」は、あり得ないことです。
それをせずに愛想を振りまいているのだとすればその当事者自体が問題を悪化させているのです。
いずれにしても「生理的に受け付けない」というのは仕事の悩みとは言えないと思いますが、それが原因で悩んでいるのだとしたらやはり、自身の物の見方を、主観から客観へ変えていくしかない、と思います。
部下の育成がうまくできない時の対処法
ある程度、仕事ができるようになり、同じ職場に長く勤めていると立場的にも後輩や部下に仕事を教えなければいけない立場となりますよね。
それはあまり人に教えるのが得意ではない人にとってはかなり強いストレスとなることでしょう。
実は私も立場上、職場では仕事を教えなくてはいけない時があり、そんな時は少し、面倒だな、と思うときもあります。
でもそんな時こそ、今こそ人の役に立てるチャンス!
そう思って、気持ちを切り替えるようにしていますが、これで結構うまくいっています。
ただ、人の育成がうまくいくためにはいくつかの条件があることも事実です。
学ぶ時の姿勢
- 新人は「何もできない、役に立てない自分」を自覚すること
- 新人は何でも良いから勉強し、ひたむきに努力しなければならない立場。 人の役に立てるように努力する
- 素直で謙虚でなければいけない
- 自信を付けるには、こつこつ経験を積むのみ、と心得る
幸い、私が教えることがある後輩はこれらのことが揃っているのでしょう。
おかげでストレス無く毎日スムーズに仕事できています。
部下や後輩の指導がうまくいかなくて悩んでいる人は、もしかしたらこれらの、学ぶ側の条件が揃っていない可能性もありますね。
その場合は、相手の問題ですから自分を責める必要はありません。 堂々としていましょう。
でもだからといって、責任は指導者にあるのだから困っている、という人もいるでしょう。
そんな人は、次の指導者側の条件を参考にしてみてください。
教える時の姿勢
- 教える時は、100%相手の立場になって考える
- 相手が理解して始めて、教えた、と言える。
- 自分がやったことを相手にも勧める、コレが教育の基本(お釈迦様も自分がやったことのみを教えていた)
- 教えるためには、自分の人格を育てる必要がある。
- リーダーは、相手に自信をつけさせるのが仕事
- リーダーは親の目線で、経験をつませ、自分は目立ってはいけない
いかがでしょうか、学ぶ側に比べて教える側の条件は結構難しいものが多いと思いませんか?
私達は人に何かを伝えたり、教えたりするとき、簡単に考えてはいけないのです。
まず、心得るべきは、この事実です。
それから人を指導するときは、決して怒ってはいけません。
怒りは感情であり、感情はすべて悪です。
能力があり、自信も備わっている人は感情に振り回されません。怒りは静めるのではなく、そもそも沸き起こらない様に気をつけるべきなのです。
怒っても何一つ、相手にはまるで伝わらないものと心得ておきましょう。
また、叱るときはユーモアを交えると効果的です。
人は他人の話など基本的に聞きたくないのです。
ベラベラと自分の言いたいことだけ言えば伝わると思うのは間違いです。
なんとか要点を伝えるためには教わる側のこころに余裕をつくってあげなくてはいけません。
その上で端的に、要点を伝えます。
教える事は本当に大変で、能力の必要なこと。 そう捉えると、自分が教わるときにも謙虚になれるし、教える時には慎重に丁寧にしようと思いますよね。
仕事は競争ではない
ここまでいろいろと、「仕事」について、私達はどう向き合うべきなのか?を仏教の視点で私なりに解説してきましたが、ここで仕事に取り組むときにとても大事だと思うことを書いておこうと思います。
私達は「仕事」と聞くとどうしてもお金を稼ぐための行為でそれに伴い「辛い」「苦しい」「疲れる」「つまらない」「面倒」などのネガティブな感情を抱きがちですが、本来、仕事とは生きること、そのものです。
昨今では、経済活動こそが人間のとるべき行為で、経済競争があるから、人類は文化、文明を築き上げた、などの間違った認識が幅をきかせているようにも見えますが、理性的に考えると、私達の世界は共存の世界であり、競争を繰り返して最強を決めるような世界では決してありませんよね。
競争によって経済が活性化して、みんなの生活が潤う
という考えは勘違いも良いところで、それは間違いであり邪見です。一時的に社会が盛り上がっても決して長くは続きません。
会社によっては、社員同士を成績によって競わせて会社全体の利益を上げていくといった経営をするところもあるようですが、そのような実力主義、成果主義では繁栄は永続きしないどころか、経営者は自ら自分の首を絞めているようなものなのです。
そもそも競争とは破壊であり、奪い合いですから一人勝ちの幸せなんてありえません。
もともと私達は皆生まれたついでに生きているようなもので、
ただ、生まれたから生きる。
これこそが仕事の全貌です。
少し余談になりますが、これはそのまま「人は何のために生きるのか?」と言った疑問に対しての回答にもなります。
私達が生きるのはただただ、因果法則に乗っ取って、生まれているのですから、その延長で生きているだけで、別に目的などありません。
でも視点を変えて考えると「生まれる」ということは本来、その生命はその場所で、寿命まで生きていく能力が備わっているから生まれているのです。
これは人が生きていく上でも知っておくべき大事なことだと思います。
もし寿命まで生きていけないとすれば他に、外的要因があるからです。
人生の途中でガンなどの病気で死んでしまうのも、その要因ができてしまう条件が揃ったからでしょうし、せっかく生まれたのに食べ物がなく子どものうちに餓死してしまうのなら、明らかに世界の誰かが余計に搾取しているからでしょう。
とにかく生まれたのだから寿命まで生きること。それが全ての生命にとって無条件にやらなければならない一番の仕事なはずなのです。
私達がやらなくてはならない仕事の内のほんの一部である、「お金を得るための仕事」だけを人生の全てかのように思い、悩み、落ち込むのは止めましょう。
ひとつ駄目なら、次、又駄目なら次、といくらでもやり直せば良いだけですから。
メンタルコントロール
ここまで読んでいただいたあなたは、もしかしたら今の職業、仕事に悩みを抱えているのかも知れません。
でもここまで書いてきたようにたかが仕事です。
お釈迦様は「自分の心をうまく操縦しなさい」と仰います。
私達はあらゆる因果法則の中で報いを受けながら生きるしかないのですが、唯一コントロールできるものがあります。
それは「自分の心」です。他人の心は結果的に動かせることもありますが、狙ってできるものでもありません。
自分の心だけが操縦できる。私達は皆、自分のこころの操縦士なのです。
今からすぐに始めて見てください。
それと是非、こどもを見習ってみてください。子ども達は皆、楽しみを見つける天才です。経済などという、概念は微塵もありません。
それから、いつまでも過ぎたことやまだ来ぬ先のことなども頭にありませんね。
大人だってそれでいいのです。大事なのは今、やるべき事をやる。自分がやれる範囲で精一杯やってみる。
そのあと、周りにどう評価されようがそれは相手の勝手です。自分が決められることではないのですから全く気にする必要もないのです。
わたしたちはいつでもどこでも今に集中すること。
それが次の良い結果をもたらすのであって、妄想ばかりしていては悪い結果となるのも無理がないでしょう。
また、落ち込むのも止めましょう。落ち込みなんてものはあくびと同じようなもので、その瞬間眠気を感じれば十分です。さらっとやり過ごして大袈裟に捉えないようにしましょう。
自分が今、落ち込んでるなあ、と思ったらちょっと気分転換すれば良いだけです。何でもいいのでいつもと違うことをしてみるだけで随分と心は変わるものなのです。
まとめ
いかがでしたか? 仕事のことで悩むなんてちょっと馬鹿馬鹿しいな、と思えませんか?
最後に、今後仕事のことで二度と悩まないようにするための心得をまとめておきます。
- 仕事とは本来、生きること、そのものである
- お金を得るための仕事を人生の全て、と捉えるべきではない
- 仕事の醍醐味はみんなに感謝されること、必要とされること
- 人の役に立つことを意識し、死ぬまで謙虚に学び続けること
- たかが仕事、ととらえ「雑事少なく、軽々と過ごす」こと
- 私達の本当にやるべき仕事とは、心を育てること。