仕事とは何かを考える
こんにちは、soraoです。
今回は「仕事」について私なりに仏教に照らして、考えてみたいと思います。
現代社会は、とにかくストレスの多い時代ですが、とくに仕事中にストレスを感じることが多いのではないでしょうか?
初期仏教の教えには、物事を理性的に分析する重要性が基本にありますので、まず「仕事とは何か」をはっきりさせてみましょう。
その上で、私達現代人の誰もが直面する仕事に対しての不満や不安、悩みなどの解決の糸口をみつけられたらと思います。
進路のことで悩んでいる方や今の仕事に悩みを抱えている方、転職を考えている方のご参考になればと思います。
目次
仕事の本質を見極める
まずはじめに、「仕事とは何か」ということをはっきりさせなければ、仕事上の悩みやトラブルは解決しようがありませんので、私達は真理の元で、仕事の定義を明らかにする必要があります。
で、いきなり結論ですが、お釈迦様の教えでは、「仕事というのは生きることそのもの」というのが基本にあります。
私達は、「仕事」というと「会社に就職してお給料をもらうこと」、あるいは「独立して報酬をもらうこと」、だとか「会社を経営すること」だと考えがちです。
とにかくやったことの見返りにお金を得ることだけが仕事だと思っている人が多いと思います。
でも、お金というのは考えてみれば、人類の長い歴史の中で見ると、ごく最近に社会で採用されている便利な道具、に過ぎません。
決してお金がもともと自然の摂理としてあって、人類が発展してきたわけではありません。
あくまでも人間が社会生活の中で勝手につくった共通概念に過ぎませんよね。
お釈迦様のように、不変的な心理に照らして考えると、どんな生命にとっても、
「生きることすべてが仕事」です。
ですから、私達はまずこの事実を頭に入れておきましょう。
そうすることで仕事するために必要なことが見えてきます。
世間での「仕事」は全体の一部分
真理の目で見れば「生きることに関わるすべての行為が仕事」となるわけですが、
世間ではその中の一部分である、お金を稼ぐことだけが重要視されています。
お金を稼ぐことももちろん、社会のシステム上必要な仕事なのですがそれはあくまでも、たくさんある中の一部分に過ぎません。
にもかかわらず、どうでしょうか。多くの人は「お金を稼ぐ事」だけをものすごく特別扱いしていないでしょうか?
逆に言うと、プライベートで行っている行為をすごく軽視していないでしょうか?
どうしてもお金が発生する仕事を一番に考え、後のことは適当になってしまいがちですよね。
それだけ世間での仕事とは「お金を稼ぐこと」といった認識が強いのです。
でも本当はそこは考え、あらためるべき所です。
そもそも、お金を稼ぐ仕事をするためには、体の健康を維持することが先決だし、こころの状態が不安定では仕事はまともに勤まらないでしょう。
ですからしっかりした食事をとる時間や寝る時間、休む時間、気分をリフレッシュする時間なども、お金が発生する時間と同等に扱われるべき大事な時間なのです。
順序としても、男性女性にかかわらず、子どもとじっくりと向き合って子育てをしたり、家事をしっかりと行うことの方が私達人間が清々しく生きる上で大事な仕事なのです。
社会が私達に求める仕事
では次にお金を稼ぐ仕事について考えて見ましょう。
生きること自体が大事な仕事、とは言え、お金を稼ぐ必要もあるのも確かです。
ところであなたは、飲食店で食事しようとするとき、店員にオーダーしたメニューと違うものが運ばれてきたらどうしますか?
当然、間違いを指摘して希望のものに変えて貰いますよね。
タクシーに乗って、説明しているとおりの場所に着かなかったり、道を遠回りされたりしたら、指摘して正規の料金しか払いませんよね。
これらは分かりやすい例ですが、お金が発生する仕事というのは得てして失敗や間違いが許されないものです。
つまり決まって言えるのは、社会は常に労働者に対して完璧を求めてくることです。
どんな仕事でもお金が発生する仕事では失敗は許されないのです。
それは新人であろうが、経験不足だろうが、同じ事。
お金を払う立場になってみると誰もが少しでも良い仕事を期待してしまう。
これが私達の生きている人間社会の現状です。
「今日は調子が悪いから勘弁して!!」は通用しないのです。
実際には、人間ですから失敗することはありますが、失敗をそのままにしていて平気ということはありませんよね。
必ず誰かがフォローするか、自分でやり直すなり責任をとらなければいけません。
お金が発生する仕事では、個人の願望や都合に関係なく、いつでも完璧をもとめられるもの。
ということを覚えておきましょう。
仕事の心得
本当は仕事というのはお金を稼ぐための行為だけではないのですが、私達が生活するためには最低限のお金は必要なのも事実ですね。
私達は良い悪いに関係なく、そういう社会に生きています。
どうせお金を得る仕事をしなければならないなら、ストレス無く、楽しんでやっていきたいと思いますよね。
では実際に私達が仕事をストレス無く、こなしてくためには何が必要なのでしょうか。
社会は私達に、個人の願望や都合に関係なく、いつでも完璧をもとめている、というところから答えは見えてきます。
つまり社会が私達に求める仕事とというのは「人の役に立つこと」、この一言につきるのではないでしょうか。
ここから私達が仕事を選ぶ際に必要なものがわかります。
それは人の役に立つ能力とそれを維持していく努力。
どんな仕事であれ、これが揃っていれば何も心配ありません。
難しそうに思いますか?
いえ、大丈夫です。どんな人でも必ず人の役に立つ能力はもっているはずなのです。
この世は共存共生の世界です。
その世界において生まれてきた、ということは絶対に何かしら、大なり小なり、何かの役に立てる道理があるのです。
それは真理であり、法則ですから、私達は、その点では自信を持って良いと思います。
個人のできることは所詮、全体で見ればほんの些細なことではあるけれど真理として、全ての生命は何かの役に立てるのです。
肝心なのは自分の能力を見つけて維持する努力。
具体的に言えば、死ぬまで学び続けることが大事になってきます。
つまりは「生きること=学び続けること」でもあります。
学ぶのを辞めたとき、私達は一気に堕落し、苦しみの多い人生に転落するのです。
これはお金を得るための仕事であろうが、それ以外の仕事(生きることそのもの)であろうが同じで、私達は生まれてきた以上、死ぬまで学び続けることで、良い結果がうまれ、その連続で充実した良い人生を得られるのです。
仕事の選び方
さて、就職先や仕事を選ぶとき、あなたは何を基準に選んでいますか?
また、理想の仕事、職業とはどんなものだと思いますか?
多くの人は、まず「好きなことが仕事にできたら良いなあ、と考えているのではないでしょうか。
或いは、給料が高ければ何でも頑張れます。 なんて考えたりしているかも知れません。
またある人は、職場の雰囲気が良いのが最優先、と考えていたり。
もし、これらのような基準で仕事や職場選びをしていたら、この先もまた仕事のことで悩みがつきないでしょう。
仏教が教えているのは真理に則ったものの考え方です。
いわば法則です。
私達は因果法則に沿った世界で生きているのですから、その法則を守ることで一番、理想に近い結果が生まれるのです。
仕事の事であれこれ悩みたくないのなら、まず次のことを基準に仕事や職場を選んで見てください
-
- 好き嫌い、に関係なく自分に向いている作業かどうか
- その仕事の中で自分なりに楽しみを見出せるかどうか
好きなことが仕事になれば、それに越したことはない、と考えがちですが果たして本当にそうでしょうか?
仏教的な観点でみるとそれは間違いです。
社会が求める仕事とは個人の好き嫌いに関係ないのです。にもかかわらず、向いていない仕事を続けるとどうなるでしょうか。お客さんだけでなく、一緒に働く職場の人々がその分フォローしなくてはならなくなります。 これではお互いにとってやりずらくなるのは明白です。
世の中には結構、これは自分がやりたくて始めたことだから、といって、なかなか能力が上がらないにもかかわらず、ズルズルとひとつの職種にしがみつく人がいるようですが、仏教的にみるとこれは明らかに「無智」が働いている状態です。
いくら自分なりに頑張っていても、通用する話ではないのです。こういう人は職業、について強いこだわりを持ちすぎています。
仕事なんて「お金を得る手段のひとつ」、「たかが仕事」と考えれば、すんなり自分が楽にこなせる仕事がみつかるはずです。社会は求めていることに満たない労働力に対して納得してはくれないのですから。
いくら「私の仕事に対しての思いは誰にも負けません」と言っていても、実際に能力が足りなければ商売としても成り立たないし、その本人もすごく仕事していて辛くなるのです。 いくら頑張っていても仕事の充実感も得られないでしょう。
逆にあまり好きではないなあ、と思っていても、やっていて別に苦ではなく、淡々とこなせている。
あるいは周りからその仕事ぶりを評価される場合、その人にはその仕事が向いているのです。
本人はそんなに楽しさは感じていなくても、少し視点を変えるだけで楽しみを見いだせていける可能性が十分あります。
なぜなら少なくともその人の能力が人の役に立ち、感謝され、尚かつ、やっていてストレスが溜まらないのですから。
このように理性で、考えていくと分かってきますね。必要なのは求められる最小限の能力とそれを持続するための努力です。
社会は私達個人にそこまで大きな能力を求めてはいません。ほんの小さな能力で良いのです。
それと「努力」というとなんだか苦しくて大変なようにも感じがちですが、本当は逆で、私達は向上心をもって小さな事でも常に学んでいかなければ苦しくて大変な人生になってしまうのです。
動物達だって、死ぬまでそれぞれの能力に合わせて学び続けています。
決して本能だけで生きているわけではありません。なぜならそうしないとエサは採れないし、天敵に襲われて、生きていけないからです。
人間だって同じ世界に生きています。動物達よりは安全、とは言え、学ばない人は悪人に騙されたり、危害を加えられることもあります。
そして何より、学びが少ない人は世間の役に立つ能力をどんどん失ってしまいます。
それでは必然的にできる仕事も減っていきます。
要は自分なりに、工夫して、仕事の楽しみを見出せていけるかどうかだと思います。
仕事が嫌になったときの対処法
仕事を楽しくこなせている時は何も問題ないのですが、いつでもそうではないのが人の性(さが)ですね。
やはり、仕事が面白くない、つらい、やりきれない。 といったネガティブな感情が沸いてくることもありますよね。
そんな時に、お釈迦様の教えにはとても役に立つことがたくさんあります。
まず、私達は仕事中、どんなことで嫌になっているのか、例を挙げてみましょう。
- 仕事量が多すぎて残業が絶えず、疲れがとれない
- 自分の仕事に楽しみ、やりがいがみつけられない
- 会社が自分を評価してくれず、給料が上がらない
- 上司や部下、同僚との人間関係がうまくいかず、衝突したり、コミュニケーションに疲れる(後編ページに続きます。)
仕事上の悩みと言えば大抵、これらの内のどれかではないでしょうか。
順番に見ていきましょう。
1.仕事量が多すぎて残業が絶えず、疲れが取れない場合
日本の会社では結構こういった職場環境は多いようです。ネット上で平均残業時間を調べてみると、約47時間/月という数字が上がっています。
ただし最も参考になりそうな数字でもアンケート対象が6万8千人程度の調査結果でしかなく、全国の就業者数が約6700万人(平成30年5月)であることを考えるとちょっと信憑性は薄いですね。
おそらく中小零細企業などで働く労働者を含めるともっと長い時間ではないでしょうか。
いずれにしても残業時間が長い職場では、いくらその仕事自体が向いていても、仕事とはお金を稼ぐことが全てではないのですから、当然他の大事な仕事(生きるのに大切な行為)の時間が奪われることになります。
これは私達にとってとても貴重な時間であり、会社や雇用者はこれらの時間を奪う権利はないはずです。
しかし、残念ながら余程、会社や雇用者が意識して改革しない限り、こういっった職場の改善は期待できないと思った方がよいです。
納得できない残業が続く職場では自ずとモチベーションも下がり、パフォーマンスも落ち、益々負のスパイラルに陥るのは時間の問題でしょう。
このような場合、最も有効なのはその職場を離れ、より適度な職場を見つけることです。
「そうはいってもそう簡単に転職するわけにはいかない!!」と言う声も聞こえてきそうですが、本当にそうでしょうか?
お金を稼ぐ手段というのはあなたにとってその職場で働くことだけではないはずです。
何度も言いますが、お金を稼ぐための仕事は人生の仕事の内の一部に過ぎません。
その一部に身体的にも精神的にも多くの時間を費やしていては、他の大事な仕事がおろそかになるのは当たり前の道理です。
自分の感情に執着するのではなく、理性で考え、行動するべきなのです。
それから「働く=就職」と考えるのは非常に視野が狭いです。就職しなくてもお金を得る方法はたくさんあるのです。
どの様に得るとしても、正当なやり方で、常に人の役に立つことを意識していくことで可能性は広がっていくはずです。
視野を広げて考えて、自分の人生の中でやるべき仕事、に優先順位をつけてみましょう。
そのように価値観を変えていくことで次の仕事は、必ずみつかるはずです。
2.自分の仕事に楽しみ、やりがいがみつけられない場合
この場合も価値観を変えて行くことが必要かと思います。
根本に立ち返り、考えてみたとき、その会社や職場で自分は何を(どの部分を)担うことを求められているのか?をよく理解する必要があります。
お金を稼ぐ仕事、というのは所詮、こっちの都合には合わせてくれないものです。
どんなに万能に見える人でも、社会全体からすると、やれることは凄く微々たるものなのです。
そして、社会がもとめてくるものも、ごく些細な部分のはずです。
楽しみ、やりがいが見つからないと言う人は、おそらく自分の理想の仕事、にこだわりがあるのではないでしょうか。
または、あれもやってみたい、これもやってみたいと欲が沸いている状態。
これでは会社があなたに求めていることと合致しません。それでますます、互いに関係が悪くなってしまい嫌になっていく、といったパターンになってしまいます。
仕事の醍醐味はみんなに感謝されること、必要とされること。
これではじめてやりがいが生まれ、楽しみとなるはずです。
まず謙虚になってみて下さい。
やりたい仕事だけでなく、みんながいやがっている仕事ほど役に立てるチャンスとなります。
大事なのは、辛くても頑張るのではなく、その状況でやりがいをみつけられるような心を育てる事が重要で、
そのためには感情は抜きにして理性で、ものごとを観察することです。
仏教の視点からすると、仕事を楽しめないのは恥ずかしいことなのです。
是非、理性的に考えてみましょう。
3.会社が自分を評価してくれず、給料が上がらない場合
これは、二つの理由が考えられますね。
- 会社から見るとどこかに欠如があるので昇給を見送っている
- 当人には全く問題なく仕事をこなし、評価も得てはいるが、昇給しない。
極端に言えばこのどちらかでしょう。
自分では、「わたしは会社の役に立っている。」、「もっと昇給してくれてもいいはずだ」、「自分の仕事には欠如がまったくない」
と思っていても、それはあくまでも主観ですね。
こういう場合、考え方として、いくら自分目線で「あいつよりは貰えてもいいはずだ」とか「こんなにやってるんだからこのくらいはくれてもいいはずだ」と考えても無駄で、会社側(雇用者の目線)の立場で考えてみなければわかりません。
なぜなら、給料を決めるのは会社(雇用者)だからです。
当たり前ではありますが、事実として、あなたのお給料は会社側(雇用者)が決めていますよね。
具体的にはその会社(雇用者)により、その基準に違いはあると思いますが、決めるのは会社側(雇用者)であなたには決定権がありません。
その代わり、納得できなければ辞める、と言う権利があります。
嫌なのに強制的にその給料で働かなくてはいけないわけではないのです。
ですから、会社や雇用者の目線で考えてみて、自分に要求されている仕事はどこからどこまでで、それを完璧にこなせているのかどうか?さらには求められている以上の結果が出せているのかどうか?で判断しなくてはなりませんね。
あらためて、そのように考えると、大抵は、自分にもまだ不十分なところがあるなあ、と思い当たる節がでてくるものではないでしょうか。
それでも、どう考えても自分は完璧なのに、昇給してもらえない、というのなら、もはや、悩んでいても解決しません。
その時は先にも言ったように、納得できなければ辞める権利を行使しましょう。
仏教では、いつまでも答えの出ない悩みを抱えながら生きるのは無智で愚かな行為とされています。
悶々としながら納得できない職場で過ごしていても自分にも周りの人々にとっても悪影響がでるものです。
私達はお給料は多ければ多いほどもらえれば有り難い、と考えがちですが、正しいのは働いた分だけ頂くことです。
給料を決めるのは会社側(雇用者)ならば、それが自分の仕事に対しての対価だと、謙虚に受け止める。
そうすることであとは余計なことを考えずに、気持ちよく自分の仕事に集中するべきではないでしょうか?
それともう一つ、完璧に仕事はしていても昇給に繋がらない理由として、その会社や雇用者の事業自体が悪化している場合、がありますね。
つまり出したくても、出せない状態です。
この場合にも選択肢は二つありますが、もし会社や雇用者との信頼関係がなされているのなら、その時こそ仕事の醍醐味でもある、「人の役に立つこと」のチャンスが来たと思って大いに自分の役割に力を注ぐことで、やりがいにもつながるし、少なくとも納得して仕事に集中できるのではないでしょうか。
いずれにしても、自分の給料に納得できない場合、それがなぜなのか?
会社側(雇用者側)の立場になってよく観察し、見極めることで納得を得ることが必要でしょう。
それから、あまりお金に対して執着することはよくありません。
誰もがお金(財産)はたくさんあればあるほど幸せ、と思っている世の中ですが、そんな世の中をお釈迦様は2600年程も前に戒めています。
実際にはお金はあってもなくても、私たちは心の持ちようで幸福を得られるのです。
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お釈迦様の教えに
「雑事を少なく、軽々と暮らしなさい」というものがあります。
あなたが求められている小さな部分にだけ責任を持ち、自分の身の程を知り、謙虚でいることです。
また、価値があるのは物事の方で数字ではなく、お金というのは便利な面があるだけで、価値観の全てにしてはいけないものでもあります。
是非、これらのお釈迦様の教えにも耳を傾けてみてください。
ちょっと、長くなりましたので、今回はこの辺で。
4.上司や部下、同僚との人間関係がうまくいかず、衝突したり、コミュニケーションに疲れる場合
は【後編】へ続きます。
後編はこちらです↓